どこかのだれか

 

 

夜がとても長くなっている。やっと晩御飯(0時45分)。何かに没頭するとすぐ時間とご飯を忘れる。夜更かしはたまたまなようで、日付的に明日から遅番になるからそれに合わせているのかもしれない。自分のことすら分からないのが人間である。

 

カロリー消費が大変。久々にチョコ買った。ご飯に時間をかけるのがもったいないときもある。

 

今回の没頭の対象は劇評。始めたのが遅かったのもあるけどよく時間内に収まった。2時間で1本。計2本で4時間。自分の言葉の発掘作業。これも自分はこれくらいで書けるという無意識の計算があったのかもしれないし、なかったのかもしれない。前の劇評は同じ文字数で1本だけだったけど勝手が分からずもっと時間がかかっていた。

 

成長したとも言えるけど、なんというか完成品を読むと文体が随分と崩れている。日記に近くなった。劇評の枠としてどうなのだろうと思わなくもないけど僕がありきたりな感想文好きじゃないからしょうがない。表記の揺れとか誤字脱字はなかったら良いけど。仕事だから素面で書いたし何度も何度も読み返してリズムも整えたから大丈夫と思いたい。前は表記の揺れはないように書いたけど、今回はあえて揺らしたところもある。そっちの方が自分の言葉っぽかったから。

 

結局は、劇をテーマにした自由演技が劇評だろうなという枠。飲んでないからちゃんと劇自体と繋がっているはず。構築するときに他の人の劇評を眺めたけど、否定を書くということは僕にはできないだろうなと思った。だって、そもそも劇がなければ感想も生まれないからそれを否定するって、書いている自分も否定することに近くないかって。

 

世界に対する肯定感。自分にとってこうあった方が楽しかったもっと良くなるという素朴な感覚も肯定されるべきだけど、あえて表現者にそれを言う必要があるのかな。その人の、世界が自分にとって都合良くあるべきだという世界観が浮き彫りになるだけなような。

 

僕が書いていて思ったのは、何かに対して深く考えることは、結局自分を見出すことに直結しているのだなと。何かを良いとか悪いとか感じる判断は外のことではなくて、内側のことでしかない。世界がそうなのではなくて自分がそうなのだって早く気付くべき。

 

文才もへったくれもないけど、自分しか書けないことは書いたという自負はある。肯定から始まる世界観。文体としては同じように書いたけど、次元はちょっと違う。一本目あくまで観劇者目線でしか書いていないけど、2本目は演劇を創ってくれた人たちへの恋文感。どこまで届いただろう。

 

個人的には、書いた続きで全く想定していなかった結論に辿りついたところが面白かった。書かなければ届かなかった想念。僕はあんまり自分の枠を決めていないからしばしばこういうことになる。この文脈では言葉は自分のその先を発掘する手段でしかない。言葉は誰かに投げているようで自分に投げているに過ぎないもの。

 

読んでいる本で、言葉には誰が発したかという識別がまず先にあるとか。言葉は信用に値する人が発するかどうかで価値が違う。僕はそこまで考えていないけどなんとなく分かる。人の何を信用するかって、言葉じゃないもんな。つまり言葉なんて信用に値しないということ。僕が見ているところはズレているけど。もっと言えば、、僕の言葉も信用には値しない。

 

眠くてしょうがないからここまでか。

 

僕は人を自在として観ているだけ。

 

 

なぜ想い人がこれだけ好きなのかも分からないし。

 

素朴に考えてこれって本当に解明する必要あるのかと。

 

機会があれば解明しても良いけど、そんな機会はない方が良い。あったとしたらあなたをどれだけおかずにしたのかも語らないといけないし。

 

最終的に、人は自分を誰かにまるっと語ることはできないのだろうなに収束する。ぼくだってどれだけ言葉を尽くしても、自分を開示することはできないし。語れないから語っている。

 

自分に語られない他人の人格を許容することはとても恐ろしい。でもその恐ろしさが関係なのだろうなとも思う主観。主観だけで見れば、相手が自分を許容してくれるかどうかなんて全く関係ない。

 

では寝まする。

 

いい夢見てますように。

 

おしまい。