彼方

 

 

なんとなく、詰めた1日。

 

結局のところ夢では逢えず。空想では楽しかったけど。空想くらいは楽観で良い、それが現実化すると思い込まない限りは。手から伝わる髪と体温の感触。肯定したい欲求ってなんだか珍しいような。欲求は向けられたことの反射だからこんなこともあるか。現実的ではないものを頂いている。という勝手な主観。

 

 

さて。7時半に目覚ましをかけたけて起きたのは起きたけど、結局起き上がったのは8時半前だった。必要に迫られずに起こされるとまず思うのは、この眠気で一日持つのかという感情。その一瞬に囚われたらうとうとしまう。実際は少し寝たくらいで何かが変わる訳でもないのに。しかし二度寝は気持ちよい。

 

そうして、キウイを食べるタイミングを見つけた。起きてすぐインスタントコーヒーを作る、お湯が沸くまでに立ち食い。糖分摂取。そうして一応ノルマはこなせた。朝の方がインプット力はある模様。あんまり頭は回らないけど、すっきりはしている。そのあと炒め物作って常備菜と梅干ご飯と豆苗としめじの味噌汁。おなか一杯。夜も入れて今日はお腹も詰め詰め。

 

家も少し早めに出て、土筆の土手を眺めながらゆっくり歩いた。カラスの森の住宅地もそろそろ入居者がいるのではないかという感じ。優雅ではあるけれど、あまり馴染まないなと思う。こういう生活を続けることでお腹いっぱいになるのだろうかとか。まぁそんな先のことは分からないけども。

 

優雅の優より悠長の悠の方が好きだと自画自賛。語意を見てもしっくりくる。もっと穏やかになりたいところ。凪いでいたい。でもこの漢字、適切な訓読みがない。人名で「はるか」とかあるけど、悠かと書は書かないような。音読みも他の単語との組み合わせだし、独立していないというところもらしいのかもしれないけど、一字で付けてくれたおじいちゃんに感謝しよう。

 

あ、書いていたら昨日寝る前に考えていたことを思い出した。肯定の下りだけど、相手のことを受け入れるというのは、関係において自分を重視しないことも気にしないということを含意するだろうなと。重視しないじゃないな、行動の方。特に自分のために関係してくれることを求めない。僕は自分に気を遣われるのはあんまり好きじゃない。僕も遣っていないし。勝手に好きにやっているだけ。

 

ただ、これは微妙なところで、外から観察した振る舞いとしては、どうでも良い特に興味ない人との関係と大差がない。どうでも良い人にもエネルギーは使わないだろうし。行動が人を示すという考え方は現実的な視点で言えば正しいけど、内心も含めた人の本質も見るなら何が本とか分からない。

 

アランさんも、芸術の体系の彫刻の所だったかな、で人の動きは人の動きしか表現しないって言っていたし。つまり動きベースの見方だと、人の現実方面の本質しか見えないということ。もちろん、これで特に不都合もない。ただ、僕の祈りも言語化しなければ誰の目にも触れないけど、別に目に触れないからと言って祈ってない訳ではない。人の頭の中も同じ。例えば僕の文章をとても大事に想ってくれる人が存在したとして、それが僕の目に触れないから現実ではないとは言えるけど、想いが存在しないということでもない。あんまり直接言われるのは照れるから困るけど。という楽観的空想。

 

まぁこんな感じで、言語化されない、あるかないかわからないモノは確かに現実ではなし、価値に含まないという考え方も1つの筋ではある。個人的には世の中こういう意味でも分からないものだらけだから、この筋で生きていく人はとても狭いところでしか生きられないとは思うけど。この分からない世界でいうと、言葉によって想いが在ることになるかどうかも分からなくはある。いちばん確かなモノに近いのは、自分の中のことしかなさそう。これでも結局そのものではないけど。

 

どうでも良い言語化。祈りのついでに、「好きです」っていう単語を口の中で呟いてみる。この意味で使えることなんてほとんどなくて、なんというか、確かだなって感じる。何も目的としない独立の意味。

 

 

本の話は、あれだ。哲学の歴史。古代ギリシャが理想的な民主主義だったっていうのは嘘だっていう話があった。血族主義だったとか、資本主義の欠陥と同質だとか。自由と平等はなかなか難しい。不自由と平等はセットだけど、不平等な自由に耐えられる人は少ない。自由になりたいのか平等に扱って欲しいのか。

 

 

おしまい。

 

良い夢を。

 

おやすみなさい。