独立した寂しさ

 

 

食べないより食べ過ぎた方が体調悪い。昨日は満腹感でなかなか眠れなかった。満腹は充足という観念が未だにあるようだけど、僕は胃にモノがいっぱいの感覚が駄目だ。むしろ腹が立つ。こんな定期的にやってくるものが幸せなはずがないし。満腹に食べることができるのは、良く飲んだ後だけ。食欲がバグっているとき。

 

とはいえ食べているけど。タンパク質に肉はしんどいから鯖缶常備菜の玉ねぎの酢漬けと、目玉焼きとこれも常備菜の大葉の醤油漬け。あとサラダ。醤油漬け美味しい。あまり浸かっている感じはしないけど。胃の内容量を占めないためには、炭水化物が最低限で良いような配分が必要。まぁ消化能力がほとんどないからちゃんと栄養になっているのかは分からない。分かっている人も居ない気もする。食材の栄養は調べられるけど、それがちゃんと自分に含まれるかなんてお医者さんにも分からない。

 

食欲と性欲は良く似ている。いくら満足しても定期的に飢えがやってくる。世界を食べる。ここに幸せを設定すれば定期的に幸せだからそれも良いのかも。いやはや。僕の語彙中には未だにこの言葉はない。誰かが幸せあるようにと祈るとき、それは相手の語彙であって僕の語彙ではない。みんな勝手に幸せになればいい。

 

どうでも良いけど、今ちはやふるを見ていて、名人の名前が自分と同じで連呼されている。自分でも発話しにくいのに、声優さんはすげーなと。S音が続くのが大変。スース―する。さらにどうでも良いけど、発話が鍛えられて、出勤中に呟いていたらRADWINPSのどうしても発話できなかったラップパートがなんとなく発話できそう。「ショートとチョコそこに特に意味はない」ってフレーズ。仕事さまさま。自分の意志とは無関係な言葉を発するのはまぁまぁ楽しい。トーンたっけぇなって我ながら。

 

こういうスキルは外面で大事だとは思うけど、僕が本当に楽しいときは表現する気がないから声に乗らないだろうとも思う。嬉しいからといって嬉しそうにはしない。他の人の発話見ていると、当然にプライベートにも流用しているような気がして。僕の嬉しさと、僕が嬉しそうに見えるかどうかは無関係。もっと穿てば、嬉しいという観念すら後付けで嬉しかったのだろうなと評価できるだけ。人モノ問わず、空気感で居心地が良いってことがある。

 

いま自分が嬉しいかどうかなんてほんとに嬉しいときに言葉にしていられない。

違うかなぁ。

 

 

さておき。無力感について考えていた。

 

無力感ってそもそもおこがましい話だろうなって。力の定義にもよるけど、誰だって誰かの力になることはできない。正確ではないな。正確には人が誰かのエネルギーになることはあっても、それは供給源の意図とは関係ないから、供給源としての人間に力が在る訳ではない。意味が繋がっているか微妙だけど、誰かは勝手に力にするだけで、誰かが能動的に力になる訳ではない。

 

だからおこがましいのだけど、これを感じるってことはまだ自分が誰かの力になれると思っているのだって辛さをしみじみ俯瞰している。痛い痛い。でもこの痛さを無くした方が良いかというとこれも微妙なところ。

 

僕の観測では人って自分の力になるモノを求めている、だと言い過ぎだけど、自分を確保できる人を求めているように見える。この文脈だと無力感の色合いは全然違う。磁場とか力場とかに似ている。僕は誰かを自分に留められないことを無力感とは評さない、のも言い過ぎか。留めてみたいっていう衝動もある。なかったから。

 

僕のほんとに素朴な定義だと、人間関係って通り過ぎられるもの。僕を通り過ぎた人はすべからく幸せになるというジンクスもある。例えば、僕が誰かにとって都合良かったから関係したとして、都合が悪くなったときそれでも関係するかどうか。この都合の定義も難しいところ。僕はだいたいにおいて都合の良い人物だからまぁまぁ関係があったけど、連絡不精になっただけで全て切れてしまった。僕はほぼ覚えているけど。

 

確かに、返ってこないのに発信することは拒絶されていると思っていても仕方ない。
僕の中では特にこれには返す必要がないだけど、返さなくても見ているという観念もありと言えばあり。日記は見ているけど見ていることを顕さないのも良いし、現わしても良いし、それぞれ。

 

自分になるとは難しきことなり。

 

想定とは現実化を潰すという個人的な観念がある。例えば誰かの頭を撫でたいと言ってしまえば、それは現実にはならない。僕の中だけのことだろうけど、表現することで可能性を潰している気がする。

 

想い人もさっさと僕を通り過ぎてくれたら良いのにって思う。そうなれば創作でのファンに傾注できるし、概念になれる。可能性を閉じてくれない意味が分からない。人の言動には意図があるという定義に従うなら、ここを閉じない不作為の意図で良くも悪くも空想が拡がる。いちつぶやきでもパートナーといちゃいちゃしていることを表現してくれれば、通り過ぎるまでもない存在だったと自覚できるのだけど。公にされないくらいの親密性だったら僕の好意はむしろ邪魔でしかない訳で。

 

 

ということで、閉じる表現。

これだけ具体的に想定した人は居ない。たぶんこれからもできない。

 

例えば。

 

舞台は飲み屋(たぶん鳥貴族かな)。で、貴方と僕が似ているところがあるとすれば、存在が薄いのにパートナーには不自由しないところですかねとか発言している。じゃあ今も居るのですかって聞かれて、今は時間がもったいないので居ないです、好きな人も居るしと目を逸らしながら呟く。その後、私のことですかって聞く人なのか聞かない人なのかは知らない。

 

ところで、添い寝の空想をしていたら、かつてこの腕だけ欲しいって言われたことを思い出した。もちろん切り取って。グロテスクだけどそうではなく、たぶん、肯定的な意図を現実化していたのが腕しかなかったのだろうなと。僕はどの時系列でも足りない。

 

最後に念のため。僕が僕であることと、誰かの力になるかどうかは全然繋がっていないから、誰かのためにあることができたとしても自分の肯定感には一切繋がらない。

 

では、おやすみなさい。

 

また明日。

 

おしまい。