ゆいが


職場ではトイレットペーパーの話で持ち切りだった。もちろん、買い占めた話ではなくてデマに扇動される神経を揶揄している話。オイルショックから全然進歩していないって。そうして本当にトイレットペーパーが切れそうな僕が大いに困る。まぁ困ること自体が優先順位高くないから、なんとでもするけれど。トイレットペーパーがないなら水に溶けやすいティッシュペーパーとか。

日本人の国民性は良いモノとされているけれど、こんなもの。進歩していないといえば、ええじゃないか運動とかから変わらない。個人的には人類全体だけど。日本人の思いやりはたぶんそういうルール付けがあるところにのみ存在していているみたい。なんとも儒教的。そこから外れると割と自己本位というか、自分だけは得したいみたいなところがありそう。でもこれは別に悪いことでもなくて、例えば自分の範囲が拡がったら、その自分の範疇は守らなくてはいけない。仲間意識の強さ。個人主義が浸透しているともいえる。おもんぱかり(慮り)って良い言葉だ。

そういえば、一昨日、公園の横を歩いていていると怒鳴り声が聞こえてきた。歩く速度はそままに横目で見て聞いていただけだけど、どうやらお父さんがボール遊びをしていた子供のボールが自分の子供に当たりそうになって、お前ら責任取れるのかって怒っていたみたい。良いお父さんなのかと言われたら、たぶんそんなことはない。自分の範疇を守る文脈の行為にも見えるけど、その不機嫌さにお父さんの子供達がおびえているように見えた。親が不機嫌であることは子供にとって無条件で恐ろしいこと。家庭内でも子供に言うこと聞かすために怒っているのかなぁって。まぁ本当に危険なことを条件付けるためにだけ怒るということはありうる。でも不機嫌のままに帰るぞって子供に言っていたからなんとも。

これ通り過ぎる2分間くらいの出来事。

まぁ、流されやすい国民性はどうなのだろう。これも職場の人が話していたことなのだけど、実際に買い占めている人にインタビューしている報道があったらしい。当人は、ガセだと知っているけど何かの為に買いにきたとか。これって個人的にはガセを信じていることと変わらない。知っていることと行動は必ずしも直結しないけど、現実的な情報において従って行動しているなら、それはもうガセと認識しているかどうかは関係ない。

自分で決めないというスピリットなのかな。僕もずっとそうで、最近やっと自分で決めているけど。自分で決めなかったら他責にできるメリットはある。この買い占めの例で言えば、本当に困る人が居たとしても、原因はガセを発信した人なのだから自分には関係ないって言える。

かつて試してガッテンで納豆特集したら納豆がスーパーからなくなったと変わらないような気もするけど。テレビ見ないようにして良かったわ。

主体的に生きるのは確かにこわごわする。情報だって正しいものは本質的に分からないし、その中でいちいち決めないといけない。経験則もあてにならないし、本の情報だって正しいを見つけるためのものではない。正解はどこにもない。正解嗜好気質なのは人間の傾向なのだろうな。だからこれをすれば希望が叶うみたいな本がいっぱいある。

生活を充実するノウハウ本を眺めてみたのだけど、煙草はメタボの原因になるって書かれていた。確かにそれはあるかもしれないけど、メタボの直接な要因は食べることでしかないだろうって。なんで書かないかというと、知らない。食生活変えようみたいな本はあんまり売れないのかしら。

思考と脳と芸術と。

脳科学の本も立ち読みした。好きな脳科学者さんのシリーズこういうのもあったのかって。
脳はなんだか○○シリーズ。そこでの記憶の記述。曖昧に覚えるというのは正確に記憶するより高度な機能だとか。ぼんやりした情報は応用が利くから、記憶力が落ちたのではなく進歩しているのだとか。僕はむかしの方がぼんやり記憶していたような気がするから劣化かもしれない。あと、ぼーっとすることは脳が記録しているのだとか。ブラックボックスの記憶回路。

まぁ、記憶にどれほど価値があるのかと考えていくと、なかなか難しい。例えば誰かについて覚えていることはその誰かへの想いと等価なのかとか。

アランさんはダイレクトに思考についてっていう章を書いていた。ただ、この人の思考の観念あんまり分からない気もした。もっと詳細が聞きたいところ。1人で居るときの方が思考にノイズがないのは分かるけど、これを偏見と表現しているけど。

芸術は、今度買う本を決めた。日本美術史の本。縄文土器からアーティストは居たのだっていうやつ。確かに機能から離れた造形美があった。


あと、読んでいる最新のライトノベルで、世界の本質とはという話があった。ライトノベルというラベルが貼られている哲学書。すなわち存在。この世界ではヴァーチャルがリアルと等しいくらい発達しているから、ヒトとは何ぞやという定義自体が曖昧になっている。その中で、結局は存在だろうということになるのだけど、存在の定義は書かれていない。

言葉の定義って主体的に決めるものだと思っている。どの言葉も中核的な意味はあるけど、その人がどういう風に言葉を遣うかとなると、それぞれの語用がある。これは想い人にしか聞いてない。そして答えもない。「存在を受け入れる」の定義が未だに分からない。

僕の語用の定義は簡単で、どんな交換的言葉も、相手にはなんにも求めていないというだけ。一方通行にしか使わないように決めた。

では、皆さん良い夢を。

おしまい。