障壁

 

 

 

今日の雨は無慈悲。なんの機微もなく淡々と降り続けていた。景色に感情を読み取るのは自分の感情に響くからなのか。結局自分の感情が反射して見えているだけ。という仮説。

 

さて。雑談。仕事中は雑談も楽しいものだと思っているけど、帰宅中に何を楽しんでいたのだろうと我に返る。おそらく我に返っているのは不適切で脳のどの部分が活性化しているのかというだけ。

 

雑談というよりは、面接というか尋問というか僕の情報を摂取すると言った方が適切な気がした。でももともとそういう機能があるのか、だから会話で共通項を求める。まぁ僕は僕の肉に付属する情報に価値を置いてないから、割となんでも答えていた。経歴とか出身地とか、趣味、は聞かれてない。当人漫画が好きなそうでどの漫画が好きだって聞かれた。

 

それで思ったのだけど、僕はほんとに好きな漫画以外は読み流しているから、全然固有名詞覚えていないなと。ほんとに好きな漫画も固有名詞ではあんまり覚えていないかも。好きな台詞とか好きなシーンをイメージかして収納するから、誰かと共通項にできるような固有名詞が引き出せない。何かを知っているって証明できる手っ取り早い手段が固有名詞だから、雑談の時の僕はとてもぼんやりしているように見えるはず。間違っているとは言わない。これについては改良しないといけない部分もある。なので、僕が固有名詞をおろそかにしていると見えたとしても、その固有名詞の対象をおろそかにしているとは限らない。

 

あと、今の会社、本社が中国地方にあって、出身が愛媛だからそっちの方が良いかもねと言われた。僕としては大阪に特に思い入れもないしそろそろ潮時かとも思うからこういう機会は面白いと感じている。ただの派遣でやってきている人物を取り入れようというと考えるくらいに人材不足なのかとも思わなくもないけど、曰く会社は大きいらしい。

 

そんで、何もないけどって言っていたけど、何もないってなんだろう。不便とかそういう意味だとすれば、僕は便利さには全然依存していないから、あんまり関係ないと思う。静かなところの方が好きだし、スーパーと本屋さえあれば日常は事足りる。僕は移動しないと書いた気がするけど、住んでいる場所を変えないのは環境なんてどうでもいいことだから。

 

不便としては、京都の演劇見に行くのが遠くなるところだけど、岡山から京都って新幹線だったらここから京阪使うのとそんなに変わらないような気がする。そんなに頻繁には行かないだろうし。演劇についても、僕は演劇が面白いと思っているのではなく想い人が関わった演劇に特化した興味なような気もしていて。阿部公房の鞄の演劇も一瞬行こうと思ったけど、現実の足は向かわなかった。こういうところは逆算傾向にある。結局のところ、僕は想い人のファンなのかどうか。ファンであるだけだったら良かったのにとか。ファンは飲みに誘わないだろうし。

 

哲学の本。

 

「移動可能性がないところに個人はない」

 

というフレーズ。これを読んだ貴方はどう考えるだろう。個人の観念とか物理的移動なのか精神的移動なのか、色々あるはず。ない?

 

僕が個人的に思ったことの前に、客観論だけど、移動可能性があるのが個人だとすれば、移動しなくなった人は個人ではない。けれど、個人ではないということはその場に抽象化されることができる訳で、これが大人なのではないかという疑念が起こった。大人の定義って、移動できない何処かに結び付けられている人なのでは。譲れないではなくて、守らざるを得ない場があること。悪いとも思わないし、だから大人に信頼があるともいえる。

 

僕が思ったのは、僕は移動可能性しかないなというところ。おそらく自分が物理的に存在している場なんてどうでも良い。便利不便で言っても、自販機まで徒歩20分、しかも街灯がないし、里帰りしたらスマホの電波も危ういくらいのところで育ったから、当たり前のベースがとても低い。コンビニが近くにあったら行くけど、なくなったらなくなったで、次点の手段で良い。

 

たぶん、便利になったことを捨てられないのは便利になればなるほどそれを当たり前として基準にするから。たぶん自分の生活の範疇に含んでしまうのだろう。元恋人さんは大阪生まれの大阪育ちで、田舎に住むのは無理だって言っていたなぁ。

 

この移動可能性を選んで個人で居るか、選ばずに場に属すかというのは素質の問題にも留まらない。個人で居ることってかなりしんどいこと。信じるものは自分しかない。その対価として、共通項にしなくて良い世界が見える訳だけど、どっちが良いかは選ぶしかない。自分の手綱を自分で握らなきゃならないのもデメリットかしら。

 

ともあれ。

 

上司(女性)が言っていた、岡山には何もないっていう発言をもう少し考察してみる。人って何があったら満足するのだろう。

 

当たり前ベース論で言えば、水準が下がることが何もないっていう評価になるのだけどこのベースがあれば満足できるのかというとなんだか疑問がある。不満も述べられて、なおかつ当たり前があることで、他の場よりマシってことなのか。

 

どちらにせよ、愚痴には愚痴で返すしかないし、愚痴の交換が共通項で関係が強化されるという場なら、そんな場所は要らんよなと個人的には思う。

 

僕の場合、満足という感覚はないし、あったとしてもたまたまくらいの意味。たまたまだから、自分が補強されるということにはならない。補強されないのに何で生きているのかというと、それは生きているからでしかない。意味を付与する必要がない。自分の手綱的に生きていることがどうでも良いわーって思うことがあっても、二日酔いくらいにしかならない。

 

このどうでも良いわーっていうのは、自分の無価値性と、どれだけ生きてもきっと何処にも着けないなっていう無為性だけど、そんなことも移動可能性からするとどうでも良いこと。

 

でも、このいつでも何処かに行きたいっていう感覚と矛盾した感情もある。なんで想い人の文章読むとざわざわするのか。現実的に隣で在りたい感情は移動可能性を殺すことだし、場を生かしたいというのも矛盾している。

 

まぁ矛盾は当たり前だからどうでも良いこと。なんでそう思わせてくれるのかは考えも分からんだろうな。僕は一方通行だったとしたらすぐに撤退する機能があるはずなのだけど、ここもバグっている。

 

結局、当たり前でも足すことでもなく、何を捨てることができるかが可能性の話。

 

では。

 

おしまい。

 

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