剥離

 

 

変なタイトルを付けたから変な夢を見た。解釈としては、もはや物理的に交錯することがない人の中なかで、一番幸せになって欲しい人が出てきた。前の前の恋人さん。時間も状況もぐちゃぐちゃな世界だったけど、なんとなくそう思った。お祈り案件で固有名詞には絶対にならない僕以外の全宇宙に含まれる人。

 

タイトルは書き終わってなんとなくイメージで付けるからあまり統一感がない。総括だといえるかもしれない。夢で見た景色と創造の景色と現実で見た景色の重要度って個人的には変わらない。変わらないというか、一応分けられるけど、思い出した時のイメージに差がないというか。そんなに違うものとできるようには思えないけど、どうなのだろう。価値観とか自己観で無理矢理現実的なものにしているのか。

 

結局、人に残るのは何かの残像みたいなイメージでしかないような気がする。鮮明さは体感によると言っても、体感って今をベースにしているし、体感自体が残像みたいなものでしかないような気もする。分からん。肉体をベースのするのは当然だけど、肉体が弱ったときの精神がほんものなのか。熱が出たりすると気付くんだ僕には体があるってことー、みたいな。僕は割と自分の体の状態は観察しているのだけど、これがほんものなのかというと怪しいとも思う。うつ病さえ脳の化学バランスの崩れだそうだし。

 

 

なんだっけ。薬局にフロスを買いに言ったら、クレーマー対策の張り紙が貼ってあった。マスクは入荷しても開店時からは売りません(行列対策)、在庫に関する質問には答えませんって。普通の頭があれば、聞くことの無為性も分かるような気がするけど、分からない人が多い模様。辛口気味だけど、大人とされている人がこれでは社会は何も変わらないだろうなという気がする。お客様は神様精神なのかもしれないけど、まず考えるないし調べようかと。度が過ぎると業務妨害罪とか、下手すれば住居等不法侵入罪にもなりうる。僕は具体的な個人で嫌いな人ほぼ皆無なのだけど、抽象化されていくにつれて嫌な感じになる。

 

あぁあと、早瀬耕さんの最新文庫で、憲法9条改正に反対運動をした学生を企業が採用しないみたいな話があって、難しいところだとは思った。学生運動は現実世界でも裁判になっているし。思想は内心だけど運動になると現実だし。企業は公的な存在ではないとすれば、誰を採用するかというところでは無難な人の方が良いはず。こういう憲法論は措いて、気になったのが、人事部は名前で検索してネットの発言をチェックするところ。これは普通に現実だろうなと。

 

だから匿名社会なのだろう。匿名だったらなんだって言える内弁慶感。僕が匿名的なのを欲したのも同じようなこと。でも、愚痴りたいではなく、現実的に関わり合っている人が見ても良く分からないだろうなと思っただけ。今や関わっている人が居ないから、別に何処も実名でも良いような気もする。攻撃性の発露ではなく内心のスケッチなだけ。顔とか置きっぱなしでも特に問題はない。実名で言っても良いことしか書いてないと思われる。実名だったらもっとぼやかさないといけない描写はあるけども。自分の名前好きだし。

 

そうして、僕の実名を検索すると劇評が出てくるのかは不明。検証してない。プロバイダで語句検索しても直接出てこないこともあるし、これってどういう仕組みなのだろう。自分のはてなブログが直接出てくる方法は分かるけど、こういうのもいずれ分かるか。

 

劇評の担当者とはやりとりが終わって、素晴らしい劇評をありがとうございましたって書いてくれていた。ほんとにおもしろく読んでくれたかはともかく、この人絶対良い人。まぁ実際劇評としてどうかは知ったことではなかったりする。僕のイメージだと評論って、ある作品を歴史的にどう位置付けるかを語ることだと思う訳で、僕が書いたのはここで書いている日記の対象を限定して丁寧に分析したくらいでしかない。相対的な位置付けではなく絶対的な位置付け。

 

想い人には見た日の印象のまま書いたのと完成品送ったけど、いつもの嬉しいがなかった。もしかしたらお気に召さなかったのかもしれないけど、これはこれで問題ない。僕が読んで欲しかったから送っただけで、反応が欲しいという意図は送っていないので。かつての僕は送っていたに違いない。嫌だ嫌だ。

 

意図とはなんぞや。

 

俗っぽくいうとどういった現実的効果を欲するかだけど、もう少し高尚に書くと、どうまなざされるかの操作性。自分が意図したことが現実化しなかったというのは、ないものねだり感がある。思考が現実化するっていうちょっと流行ったのはこういう文脈なような。思考っていうより願望。

 

意図をこの語義で限定するなら、能動より受動で見た方が良い。西洋美術館の本でこの作者

の意図はこうだっていうことが述べられているのだけど、僕はこれに対してはまぁまぁ懐疑的で。本当に作者はそういう意図があった訳ではなく、結果的にそういう意図があったように読み取れる作品を創っただけではという説。たまたまそうなって、読み取る人の総意が束ねられたみたいな。

 

現代クリエーターとは時代が違うから本当にどうかも知らないけど、ここって多分作家が存命でもあんまり変わらないと思う。ここはなんでこういう色を使ったのですかって聞かれて、たぶん親切な人は応えてくれるだろうけど、実際描いた人とはズレているから公式として良いか定かでもない。

 

僕は自分の現実を受動的に捉えて、ここにはこういう意図がありそうで嫌だなぁって勝手に思っている。義務的に捉えられるのが嫌なのは能動的な意図だけど。

 

 

では、皆さんがちゃんと生きられますように。

 

おしまい。