物理的世界

 

 

この三連休、大阪兵庫の移動を自粛してくださいとのこと。ニュースは見ないけどニュースアプリはインストールしていて表題だけ見る。待て、奈良、和歌山、滋賀、京都には移動

して良いのかいなと。個人的には兵庫にはあんまり行かない。最後に行ったのは伊丹に藤田嗣治展を見に行った時か、帰りにJR伊丹の近くにある和風創作串カツに寄ったけどとても美味しかった。いや違うか、最後は山口に行くときに新幹線で通り過ぎたときか。

 

人の移動が社会を形作っているということが良く分かる最近。たぶん移動に自由を載せているのだろう。もちろん移動の自由は憲法が認める人権だから、物理的・精神的自由の一種だけど。

 

自分が属する場から一時的にも離れたい気持ちはとてもわかる。けど、旅行が意味を持たないのは、梶井基次郎さんとか萩原朔太郎さんとかが言っている。そうして現代文枠の次は猫町。あの話、凄いリアリティある。ネコ人の顔とか、時間の転換とか。

 

ところで、今日はかなり調子が悪かった。全然世界を眺められていない。これは何故かと分析すると、まずは夢かなと思った。オオスズメバチの夢。布団にもぐり込んでくるのだけど、僕の体は全然動かない。自然の理不尽。オオスズメバチには刺されたことないけど踏み潰したことはある。熟した柿の汁を啜っていただけなのに。無垢な自分は大いなる悪意を持っている。スズメバチに刺されて熱出したし、百足に噛まれると滅茶苦茶痛い。自然とは鑑賞の存在ではなかった。

 

どうでも良いけど、自分が良く知らない他府県って、そこに住んでいる人を当てる傾向にある。兵庫県今まで居なかったけど、たまたま居た模様。

 

生生しい話になってくる。文字数が全然進まない重みをもたらしているのもそう。朝起きたときに、母親からの着信があったからだろうなと。我が母ながら、嫌なものは嫌。普通に考えて、人のルーティーンの前に返す義務がある着信を残す神経が分からない。返さなくても良いっていう不文律があればあるい良いけど、ここの世界では、必ず返さなきゃいけないっていう義務しかない。僕が義務を嫌悪するのは明らかにこの人から来ている。

 

これは愚痴ではなくてこの世界の規定値。なんにも思考できなくなるし世界も見えなくなる。だから親族関係嫌いなの。実家は僕の居場所ではない。

 

そもそも居場所があったことなんて在ったかという寂しい話はともかく。

 

そうして、電話仕事しているから、昼休憩にちゃちゃっと重い案件済まそうと思ってアウトバウンドしたら、案の定、自分のことを一方的に話しただけで、ついでに誕生日を忘れていたことを今日は何日ですかって聞いてくる。親不孝だとか、ナチュラルに他人にネガティブな呪詛を植え付ける人。

 

この人、僕を肉としての息子としてしか価値を置いてなくて、僕の中身なんてどうでも良いのだろうなと観念をひしひしと感じる。肉に投資した分ちゃんと返って来るのが当たり前だ、みたいな。

 

それくらいの不文律はいい加減読める。僕の世界なんてどうでも良くて、自分の世界の中のこの人という観点しかない。別に良いのだけど、親子関係じゃなかったら完全に離脱している関係。

 

僕がこの物理世界で無口になったのは、僕の話を聞いてくれる人が居なかったから。今も居ないし、それは別に問題ないけど、そういうものなのだろうなとは思う。誰だって他人の話を聞いても自分の基準に引き直して捉える。僕があまりそういうことしたくないと思うのは、それが当たり前だったいう世界観への反発。

 

蜂とかゴキブリを駆除してもなんとも思わない感覚。

 

面白い観測だけど、人ってそれほど他人を信用してないのに、人は人で交流できるって思っているところ。この交流って人として認識できる人にしか起こらない。で、人として認識できるとはなんぞやってなると、もはやブラックボックスだと思う。

 

物理現象では自分と同じような肉体と脳を持ち合わせていることが人の定義だと思うけど、じゃあ車いすの人はとか発達障害の人はとかになるけど、この辺は平気でスルーする一般人。

 

人の観念って、人の形をしていればではなく、もっと具体的なはず。

 

僕の母親のようにまともな人間観があるようで人を自分にとってどうかとしてしか見てない人は好きではない。素直にそう表現してくれれば良いけど。

 

意識の話に戻ってくると、収納された意識が等しいと仮定すれば、人の人格って、もともと持っているものは同じで顕れ方の違いでしかない。この現れ方も関係の中にしかなくて。関係における不自由性は分かる人には分かるだろうけど、まず、世界における他人が自分の為にあると思っているなら拙い。

 

では寝るのでおやすみなさい。