現実的空想

 

 

今日もとても良い一日だった。まだここからが本番みたいなところはあるけど。

 

晩御飯が美味しい。刺身ばっかりも良くないし鶏肉も考えたけど鯖缶をメインに据えた。チーズ最近食べてなかったから、グラタンにしようという思いつき。僕の中で不動のチーズ食材は「かけるチーズ」。焼いてもいいし生でサラダにかけてもいいし、豆腐にかけてレンチンでもいい。そして味が美味い。味付けは、水煮缶の汁には頼らず、しめじ舞茸玉ねぎとコンソメをまぶしてレンチンで水分だして、ケチャップとオリーブオイルと牛乳とチーズをかけてオーブントースターで焼く。

 

サラダはレタスとブロッコリースプラウトの上に崩し豆腐。これは安定だから特に言及はない。副菜はきゅうりとアスパラの浅漬け。アスパラはブロッコリーと同じ枠だからマヨネーズで食べたいところだったけども気分で。茹でて自家製浅漬けの素(塩、酢、ほんだし、胡椒、七味。砂糖は食材の甘みでええわと省略)。

 

旅行に対してディスっているような気がしたので、少し詳しく。体がインプットとアウトプットの資本だから、移動は大事ではある。ただ、行った先の世界がどうかというより移動自体のが大事。歩くことが健康に良いとされているのは血行とかもあるだろうけど、自分が移動しているという実感があることだから。時間に関してはそんなに移動を感じられないし。

 

だから、旅行もそれで自分の体が動いていると感じる限りはとても有用なこと。僕は時間も空間もあんまり自分が動いていないと意味ないと思う質だから、何処かで直に見なくても生活圏の中で直に見るべきものはたくさんあるのではと思う質だから、あんまりちゃんとした移動ということに重きは置けない。旅行の高揚は、自分があくまでゲストだから。まぁそのためにという価値観はあり。

 

でも、西洋絵画展のポスター見かけたし、割と近場だったし行きたい。僕の世界の捉え方って、このちょうど良さというかタイミングが全て。自分が世界の面白さにとっかかりを持ちうることができたこと。

 

素朴な僕は、諸々のことを成長ではなく発見と捉えている。

 

さておき。

 

生身の僕が見ているものの話をしようか。

 

近所の桜のつぼみが三個ほど花開いていた。僕の視力が全然衰えないのが何故かというのは気になるところ。毎日真っ暗にして日記書いているし、目に悪い生活習慣なのに。仮説としては、自発的に目の筋肉動かしているから。本を読むことってただ眺めることでないから。目を受動的にしているとたぶん衰える。知らんけど。僕は僕の体しか知らないから一般的な衰えとか分からない。目は自分が注視することに稼働的に動いていて、そのために筋肉を使っている。

 

寝起きとか酔っぱらっているときとか視界がすげぇ狭いと自覚できる人はどれくらいか。

 

 

そうして、世界を眺めるついでに最寄りの古書店に行ってみたらなかなか楽しかった。ほんとはバルザックの本を探していたのだけど、全然出逢えない。まだ早かった。でも今の僕でもとっかかりのある本が呼んでくれて、二冊購入。

 

美とは何ぞやのとっかかりからは、社会美学という新規の学問の本で、もう一冊はSFの巨匠であるフィリップKディックさんの処女作。冒頭が全然SFチックじゃなくてここからどうなるのかは気になる。自殺願望がある知人と最後に会ったけど生かせなかったという書き出し。なかなかリアリティある。僕なら言わないことを言っていた。僕なら単に貴方が死んだら悲しいよって言う。(経験則)

 

もう一冊は肉体が食べる食料を買ったついでに、いまどきの本もちゃんと読まねばと思って買った「一緒に絶望いたしましょうか」というタイトルに惹かれた恋愛小説。

 

この社会美学と、絶望はなんとも食べ合わせが良い。

 

社会美学のハードカバーほんとは美学の本が少なすぎる代用みたいなところはあった。けど、読んでみると社会とはなんぞやっていうことが端的に示されていて。社会とは外側ではなくて、リアルタイムに接している人間関係のこと。相互行為とか書かれていたけど、確かにそうだ。行為が無ければ社会はない。僕は行為がないところにも関係はあると思っているけど、一般的には現実的行為が全ての基準になっている。

 

これだとすれば読む言葉の重みなんて現実のパンにも満たない。嬉しさでは何も満たされないだろうな。

 

社会美学の「美学」は社会を感性で「味わう」ことだとしていることが面白い。味わうとはそれ自体を目的とするとか。この考え方が面白いと思えること自体が僕の中の発見。経験則で出会った人に、世界を客観的に捉える人は居なかった。性別関係なく自分の当たり前が絶対になっている人はいっぱい居たけど、その世界の外の人を許容できそうな人は居なかった。

 

この本読んでいると、もっと人に逢わなきゃなと思うけど、どうなんだろうとも思う。

 

 

そうして、絶望しましょうかの話。

 

共同生活の話がなかなか現実的。結婚を約束した人が居るけど、それと好きは違うとか、内

臓に触られたいとか。男が触られうる内臓は外にあるからなぁ。

 

男女観も面白い。女性は性的な意味で年上を見下すとか。これで言うと男は年下を見下すだろうなと。何にせよ、誰かを見下して存在価値を得ているなら、それはいつか返ってくるだけ。

 

それよりもご飯の話が良かった。誰かのご飯を作るということは、相手の肉体を作ることだっていう思索。飲食店の店長が、なんで人は自分が知らない人が作った料理を平気で食べるのだろうって言っていた。僕は共同生活能力多分あるし、ご飯の管理はできると思う。好きな味と、必要な栄養素を案分してあんぬん。でも、そこまでする意味を考えるとなんとも言えない。きっと相手はそれを当たり前にするだろうし。

 

最後。

 

この小説で、主人公は同棲している彼が認識しているわたしとほんとの私に距離があると言っていた。分かるけど、共同生活の為に殺した自分はどちらにもあるような。

 

そもそも、人と関係しているのにオリジナルの自分で居られるという観念が傲慢。誰かに承認される栄養価もなんとなく分かるけど、ジャンキー感はある。

 

それでも会いたいと思ってしまう不思議。

こんなの僕にたまたまぶつかってしまった不幸だろうよ。

 

おしまい。