触れるもの

 

 

ニンジンをレンジで下処理して玉ねぎと豚肉に併せて炒めていたら、これはカレーだと思って作る気がなかったのに、ウスターソースとカレー粉を加えてカレー風の何かになった。人参は下処理すると柔らかいけど、そのものの甘みがなくなるきもする。他の食材は特に気にならないけど、レンジによって破壊される成分でもあるのかな。ただの気のせいかもしれない。

 

暗いような明るいような変な気分。読んでいる本達がいちいち刺激してくる。フィリップさんが精神病で最初に消えるものは馴染み深さだと書いていて僕もそんな傾向なのかとおもわなくもない。それでも仕事は順調である。どこにも行かない関係の最たるものが雇用関係だよなと思う。業種によるかもしれないけど、区切りがない仕事というのはきっと精神に来る。だからこの職場も時間帯をローテーションしているのだろう。ついでに席も循環させてなんとかごまかしている。区切りがないところに何かを見つけるのは個人だけど。

 

馴染み深さという観念の必要性は考えるべき。

 

そういえば夢にやっと逢いたい人が出てきたな。全然ロマンチックじゃない集団雑魚寝みたいな世界だったけど(夢で逢えれば十分ではとふと思った)。なんというか経験的にこういう状況があったことがないと思ったけど、あったような気もする。一番残っているのは経験ではなく村上さんの小説のスポイルされた女子大生とのなんやらだけど。

 

というか、思い出は思い出すものではなくて、勝手に芋づる式に引っ張られるものだと思う。思い出が摩耗するという感覚が良く分からないのだけど、これって記憶力の話ではなくてその瞬間にあった感情と今の感情に距離があるから遠く感じているだけなのでは。僕が感情と自己感を繋げてないだけかもしれない。ちゃんと感情はあるけど、過去の感情と今の感情は比べるものではないし、過去は見下すべき対象でもない。

 

「一緒に絶望いたしましょうか」からの芋ずる式。男も女も居る集団関係の記録。最近兵庫の人と最近縁ができて、そういえば兵庫と言えば学生時代、高校の同級生の恋人が神戸女子大に行っていて、恋人の同級生を紹介されたなぁとか。良い人だった。結局恋人にならなかったけど、風の噂で結婚して子供ができているみたいだし、良かった。あとは、大学で知り合った友達(多分今唯一この言葉で評せる人)の高校時代の同級生が当時大阪芸術大学で、その先輩との交流。この同級生は友達のことが好きだったのに、結局先輩が友達の恋人になって、後輩を僕にあてがおうと仕向けていたと後日談で聞いた。何もなかったけど、今思えば好きとはなんともエゴ的だ。もう一個あるけど、もういいな。基本的に煩わしい。

 

この小説、「会いたい人には会いたいときに会わねばならないのだ」とかなかなか僕の自分が好きではないところを引っ張ってくる。かつて自分が壊れるくらいに好きだった人が居たのだけど、一度目に振られたあとの何年後かに手紙を書いたり、住んでいたところとかを巡ったりした。これこそ単なるストーカーだけど、一応もう一回恋人にはなれたので一方的に執着するとも違う、はず。

 

結局はその数年の時空の乖離で方向性が全く別方向になっていたから。再度別れることになる。もうちょっとうまくやれば共同生活している世界線もありえたし、この感情自体を馬鹿にすることはないけど、冷静に分析すると、ここでの好きだという感情は目的でなく手段で、自分にとって都合が良く在って欲しいというところが本質にあった。都合が良いという条件付きで好きという言葉を遣うことはままあるけど、僕はそういう風には使えなくなっている。

 

でも、この人は勝手に幸せになっているに違いないと思うし、満たされていて欲しいって祈りには含まれる。感情を伴っている訳でもないけれど、これも好きという語彙には含まれる意味なような。いや、好きには自分との関係においてという留保があるのか、はて。

 

ソクラテスが死刑になる前に言ったとされる言葉を見かけた。ここで終わりか、魂が肉体か離れるかどちらかは分からないけど、そんなことはどうでも良いみたいな。昨日書いた話みたいだ。僕はこの人程他人が目覚めれば良いとは思わないけど。

 

BGMでバックナンバーを良く聞いているのだけど、片思いソングが多い。想いが報われるみたいなテーマが多いのだけど。僕にとって報いってなんだろうって考えた。

 

僕は想い人のことをとても好きだけど、この好きの報いは、かの人が僕の恋人になることではない。むしろ、もっと生きやすくなってこの場が消滅する方が叶う。もちろん、例えば現実的に飲みに行けたとしたらとても主観的には嬉しいことだけど、客観的によほど暇だったのだろうなと観測する。まぁここ自体が場という程でもないけど。

 

絶望いたしましょうかで、男の方の主人公が、たまたま安全に寝ることができる場しかなったって想い人のことを憎むというか執着するようになるのだけど、場であることってそんなに悪いことだろうかと。どうでも良い人の場にもなってしまうならともかく、たまたま嬉しい場だったらそれで良いような。もちろん寂しいけど、自分の寂しさより祈りの方が重い。

 

社会美学の本はまだ面白くないけど、社会とは刹那的な場であって、当事者にならないと分からないという感覚はなんとなく分かる。

 

関係を観念するとき人は空間を適用していると思う。空間とはすなわち意識に制約がある世界。

 

僕は場であることはできるけど、具体的な相互関係をつくることはできないのかもしれない。

 

まぁ良いや。

 

おやすみなさい。