世界は自分の鏡

 

 

今日も楽しかったな。寝不足な感じはあんまりしない。割と暇だったから最後の辺りは周りの雑談を聞いていた。旅行好きが多いみたい。愛媛に肯定的な評価をしてくれる関西人あまり居なかったから新鮮。松山城とか伊勢神宮とか高野山とか皆さんなかなか渋い。だからこの職場楽なのだろうなと思った。なんというか他意がない。まだまだ飽きはこない模様。

 

そうして、思い込み仄かな好意論も特に誰からも訂正がなく。このままの評価で良いのかいと思わなくもないけど、まぁ僕の気分が良いくらいな効果しかないからか。訂正しなくても特に干渉が増加することはないという向きがあるのだろう、と調整的思考。実際そうだし。

 

さておき。市役所もたまに行くと面白い。日常の中に規模のごく小さな旅行感覚。生活圏とは違う私鉄に乗って向かう。ちょうど午前9時くらいに着いたけどなかなか人が多かった。整理券と書類をどう書くかというガイドさんが居て、なかなか洗練されている。ついでにとても皆さん丁寧に応対してくれる。僕の社会応対スキルもとても上がったなと思った。ありがとうございますと笑顔で言える。もしかした仕事着(スーツ)で切り替わっているのかもしれない。どうしてあの時もっと自然な笑顔でなかったのか。印象悪かっただろうなぁ。

 

洗練されていて楽だと思った反面、国民は完全に補足されているなと。まぁ利便と管理の等価交換みたいなところはある。利便は、自己証明がとても楽なところ。住民票とか、社会の構成員として立場をやすやすと示すことができる。管理は言わずもがな。でも人件費使い過ぎ感は確かにある。

 

と、この後ユニクロの自動レジと松屋の自動発券で思った。僕は接客される時に馴染み深さなんて全く求めていないから、こういう自動化は大賛成。服屋は苦手だけど本屋が好きなのはこういうこと、本屋行って、どんな本をお探しですかって聞かれたことないもの。こういう対面の印象値を求める感覚っておそらく近々旧世代のものになりそう。役所の手続ってそんなにイレギュラーないのだから、AIまっしぐら。証明書関係もどんどんコンビニ発行化されているし。

 

なんだか、立場を前提とした関係で人を感じるってややおかしさを感じる。自分が客だったら、相手は決して自分のことを傷つけないということが前提とされているし、友人とか職場とかも、醸成した空気を壊さないっていう前提がある。ここにある前提は個人のものではなくて場だから、あんまり個人的な関係な感じがしない。これだけハードル上げてまだ会いたいと思える友達はすげぇ。もう何年も連絡とっていないけど、勝手に鳥取に旅行に行って、今鳥取に居るのだけど、暇だったらどう? で返って来る気がする。

 

そうして。プロフェッショナル達のおかげで市役所が思ったより早く終わったから職場にどうやって向かおうかってなったとき、久々に市バスに乗ってみようと思ってバス停探しの旅に出た。道中で寄ったのが暇そうなユニクロ。バスが繋がっているのは知っていたし、最終的には電車の道筋でもなんとかなる緩い時間制限の中だけどなかなかの疑似的なスリルがあった。最初に着いたバス停は全然違う目的地行きで、駅の反対側に行って、これ逃したら電車ルートだったなっていう場所に辿りついたら、ちょうど逆の人からバス停の場所聞かれて、反対側ですよって答えたけど、あの女の人は辿り着けただろうか。反対側はやたらと遠いからもっと具体的に説明できれば良かったけど、なんとなくしっかり辿り着けそうな気もした。

 

バスは僕以外に1人しか乗客いなくて、なかなか優雅だった。貼ってあったポスターが松江の出雲大社を推していて、今度は1人で行ってみようかなとか。

 

大阪のバスも京都のバスもあまり乗らないのは、一駅一駅がやたらと近いから。とはいえ、高校時代バス通学だったから、バスにはなじみがある。帰省するのも高速バスだし。あの頃バスは凄く長い距離を移動していた感覚があったけど、今思うと、一駅一駅の距離は大阪も京都もあんまり変わらない。要は、自分の空間感覚が狭かったから遠く感じて、今は空間感覚が広くなったから、バスはそんなに移動していていないと分かっているだけ。

 

もちろん徒歩よりははるかに早く移動するけど、だから何なのだという。

 

職場の旅行の話で車が出てきたけど、車での移動は自由なのかと思わなくもない。ペーパー

ドライバーだから慣れていないけど、運転はまぁまぁ好きだと思う。けど、車って出発と目的地を繋げる公共交通機関の一種みたいなイメージ。何かが目に留まっても止まることは不自由だし、脇道が気になっても一方通行だったらそっちに行けないし。

 

人は何処かに移動したい衝動を素朴に持ち合わせていることは自分を観ても分かる。時間なのか空間なのか精神なのか、組み合わせは色々あるだろうけど。

 

読むことは自分を移動させるもの。あくまで個人的な感覚だけど。

 

世界は楽しいって基本的に言えないと思う。原罪とか煩悩とか、関係の外にある個人をいたたまれなくする観念があるような。この観念を創った人はなかなかの慧眼。人を関係の中に押し込めて、個人でなくなるようにして、個人の時にも関係の中でしか自分を観測できない。今思いついたけど、まぁまぁ当たっているような気がする。

 

で、僕が人からあまり嫌われないことを想うのだけど、人って基本的に他意なく自分を肯定される言葉に慣れていないのだろうなと。人を肯定するときされる時、だいたいは何か裏の意図がある。表現悪いな、対価の為に、だったら余計に具合悪いか。

 

でもこんな感じ。好きだって言ったら好きって言ったでしょ、だからここまではできるでしょみたいなこともあるし、可愛いと表することは性的にまぐあいたいっていう下心とセットみたいだし、褒めるには育てるも直結している。

 

僕の中でこれが全くないかというと怪しいところだけど(想い人に対してはだいたい開示しているから他意がないのと等価)、少なくとも、返ってくることは前提としていない。あんまり公に言語化はしないようにしているのは、効果を自覚しているからかもしれない。

 

効果というは別に生きやすくなるみたいな現実的なものではなく、気分が良くなるみたいな、なんの重みもない世界の話。でも、ここが人の本質だとも思うわけで。

 

何を楽しんでいるのだろうね。

 

では、おやすみなさい。