世が世なら

 

 

髭剃りをネットで調べたからか、youtubeの広告が髭脱毛クリームになった。偶然ではなくグーグルの検索履歴で追跡されているのではと穿っている。ダイエットのやつの流用にしか見えなかったけど、まぁまぁ効率的な広告だと思う。不特定多数の興味があるかどうか分からない人に見せるよりなんらかのとっかかりがある人に見せた方が良い。どちらにせよ胡散臭すぎて買おうとは思わないけど、洗脳効果はよりあからさまに狙えるようになったのだろうな。テレビ時代のCMは音と映像でインパクトを狙っていたけど、直接的な効果を言及できるようになった。

 

これ、消費者保護法的にとてもグレーな気がするけど、映像メディアの広告まではまだ手が届いてないのかな。もしや、ネット媒体の広告はまだ適用範囲外か? そんなことはないと思うけど、実際どうなのだろう。今度調べてみよう。法律はほとんど対面したり紙媒体だったりのもともとある現実世界を前提としているから、情報の中の社会への規制はまだ追いついていない部分がある。まぁ整備=秩序=不自由だけど。

 

法律といえば、緊急事態宣言に含まれる府だから、新型インフルエンザ等対策措置法を一読した。京都は入ってないのか。新規の措置法ではなく厳密には野田内閣の時の法律にちょろっと加えただけだった。対策措置法の対象に某ウイルスが含まれますという感じ。とても文字数が多い法律(法律はそもそも悪文の長文である)だから、読むのが大変だった。なんというか、とても輪郭が曖昧な法律。確かに行政組織の連携に関する条文は多くて、医療関係に対する補償もあるみたい。ただ、公以外の私的な領域に対してはあくまで要請しかできなくて、要請に違反しても罰則はない。

 

法律は日常の日本語の文章ではないので。

 

ただ、罰則がなくても心理的効果はあるだろうと思う。ちゃんと言ってくれたら自粛する系の人には効くだろう。学校には行くなだけど仕事には行けというのも、まぁ分からんでもない。経済活動が止まったら国では補填し切れないだろうし。まぁ仕事に対する補償は別途政令で対処するのかな。緊急事態宣言とはあんまり関係ないような気もするけど。

 

そういえば、免許の更新は稼働しているのだろうかとか、来月の国家試験どうなるのだろう。更新は平日の警察署ではやってそうだけど、免許センターでは危ういような。試験は大阪だと3000人くらい人が集まるものだから、理屈で考えると延期になりそう。個別にリモートで受けるったって人員が足りないだろうし。

 

 

世俗離れしたところで生きているけど、世俗のこともこれくらいは考えている。

 

ストレスないのかって上司に聞かれたけど、そんなことは全然ないと答えた。雑談と思わせて部下のメンタルチェックをするできる人だと思っている。自己完結したところで楽しく生きているから、現実での移動とか接触がどれだけ貴重なことかも自覚している。なければないでいかように対応できる。たぶん1000冊くらいは本があるから、それを読み返すだけで時間なんていくらでも過ぎ去るし。

 

 

ともあれ。精神世界の話。

 

ねじまき鳥クロニクルの最終巻の読み返しは終わった。なんというか、やっとこの本味わえるようになったなという感じ。初回に読んだ当時も面白いなとは感じたけど、漠然としていた。なかなか鮮明にこの人の描写が見えるようになったというか。どうでも良いけど笠井メイの文体は想い人が時々舌足らずみたいに書く文体と似ている。村上さんを読んだことがあるという情報はないからたまたまの一致でしかないのだろうけど。僕にそんな文体で投げてもらったことは記録の中では一回しかない。だからなんだという話でもないけど。

 

あと、母親とは普通に上手く通話した。話すとやはり無駄に傷つけたくないと思ってしまう。個別的に見れば普通の人だから。個別的に見ればどんな人でも愛すべき要素はあると感じる人。ただし、社会的に僕を見る人はなかなか難しい。あくまで比重でしかないけれど。母親も、役割が固定されていない時代に生きられればもっと自由に生きられた人だと思うし。自由に生きていたら僕は生まれなかったかもしれないけど、それはそれで良き可能性的世界。

 

ところで、可能性と言えば、社会美学の本を読み進めていると、「可能性を可能性として擁護する」というフレーズがあって、個人的にクスっとしてしまった。日本古来の「いき」の文化の話だけど、諦観が根底にあるとかなんとか。

 

可能性的世界観でじゅうぶんだってかつて想い人に言ったことあったなぁと。今でも思う。少し進むと、この可能性を閉じていないということは、少なくともゼロではないメリットがあるということなのだろうなと。

 

こういうメリットデメリットで世界を計るのは、僕の素朴がこうであるってことではなく観測した限り、人ってそういうものなのだろうなって思うから。好きが返ってこないのが分かっている人に恋文を送る現実的メリットなんて一般的に見れば確実にないけど、僕はそれを是としているし、自分にとって有用かどうかで計れば、だいたいの人は有用だと思う。そこに時間を使うのかという視点で見れば、自己完結できる人には関係はデメリットでしかない。

 

もう少し進むと、人って観測するほど意識的に合理で生きていないのかなともなっている。後付けなのか無意識なのか。

 

最後。

 

仮に想い人が会いたいと言ってくれたとして、僕も会いたい気持ちを殺して、潜在的に移したくないから会えませんって言う。それで好きって言ったのに嘘じゃないかと思われたらそれはそれでしょうがない。こういう想像が可能性的世界の話。

 

おしまい。