意義

 

 

 

僕が書く「仮に」は仮定法の「were to」の、限りなく不可能な可能性のこと。高校の英語の時に西から太陽が昇ったらとか、もし生まれ変わったら鳥になりたいとかそういう意味。法律で使う「仮に」は前提条件が変更されたらという言い回しだから、可能性としては等価。そうして日常用語で仮にって使う人はあんまり見かけない。当然も。法律での当然は、法的根拠なしいということらしい。こまかい。外用の言葉でもなんだか不思議。これはまた別の話。

 

緊急事態宣言は本日0時から効力を持つらしい。だからとて何かが変わることはないのは賢しい人は知っている。ただ、仕事は時短になるらしい。それで勤務時間が減るのかというと、多分そんなことはないと思う。入電数が時間内に凝縮するだけで、シフトが絞られるだけ。実際はどうなることやらだけど。

 

ところで、ご時世の話。なんだか一般の人間の感覚ってちぐはぐだなという感想。一番早番だから11時過ぎに公園にで弁当を食べるのだけど、老若男女穏やかに公園で遊んでいる。近所の人と開けた場だったら問題ないのかと思って、自粛要請の中身をいくつか調べて見たのだけど、生活用品の買い物と並べて、近場の公園での遊びの自粛をお願いするものではありませんとのことだった(埼玉県)。

 

とても覚悟が足りないというか、その感覚とパスタとトイレットペーパーの買い占めが両立するってなかなか考えられない。マスクは必要急用に使う人に残しておいてくれよって。僕に子供がいたら、なるべく外出しないように宥めて室内遊びを促すと思うのだけど、このほんわり感は何だろう。

 

個人的には別に取り立てて注視する事態ではないと思っているから、人がどうこうというはどうでも良いのだけど、なんか変だよぁって。

 

外出禁止令についての考察。日本政府が緩いという認識の人はまぁまぁいると思うけど、僕としてはこんなの自分で考えることで国に頼るなよという感覚。具体的に考えても、禁止令というには実効性を伴わないといけなくて、例えば警察機関ないし行政機関に取締りを委ねたとして、そこで働く公務員にも家族は居るだろうに、そこは度外視できるんかいって。公僕だから国民のために過剰労働させて良いっていう考え方は、とても差別的だと思う。まぁ個人レベルの差別なんて当たり前のことだから、特に問題はないけど、何かを願うときに誰がコストを支払うのかという想像力は養った方が良い。

 

あと、具体的な方策として、越境することを遊びと仕事で管理すれば良いっていう見解もあったけど、これも国家機関に個人情報を恣意的に収集できる権限を与えるものだし、何をもって越境するかって具体的に考えると煩雑になる。例えばそこで住んでいるけど身分証明書がない人についてはどうするかとか。

 

で、僕が思うのは、保護主義に対する過剰な信頼は脱却した方が良いというところ。保護主義っていうのは結局、自分が保護されるべき存在だと認めることで、ある意味公的な共依存。疾患とは認定されないけど。

 

で、この自粛に従わない人達への違和感は、きっと自分にとって迷惑だっていう感情とセットだと思う。電車通勤の時に人身事故があったら亡くなった人より自分が仕事場に行けないことへの怒りの方が重いみたいな。という、感情論がむき出しになるご時世になってきたのだろうなと。具体的に関係していない人はそれほど人ではない。あるいは具体的に関係していても。

 

僕はこのご時世に日本で生きていて良かったと思っている。ちゃんと自己判断で生きられるから。少なくとも自己判断で生きて国に殺されることはない。外出禁止令違反で警察官から体罰を受けされることを是とする人はそこだけでは良いかもしれないけど、ここには当然他の根拠で自らが体罰を受けるかもしれないことが内包されている訳で。安全圏なんてない。

 

 

さておき。

本の話。

 

村上さん繋がりで「女のいない男」を読み返そうとお風呂読書に加えたのだけど、なんだかねじまき鳥と比較してよそよそしかったから止めた。前書きで執筆システムが確立してなかった頃は、みたいなことが書かれていて、西洋美術館の本とアランさんが書いていた、芸術家は職人だみたいなこととリンクする。小説家も職人だ。ただ、僕は執筆システムが確立されていなかった頃の村上さんの本の方が好きだなとか。文体は同じなのに何が違うのだろう。直観を言語化すると、言葉とその人の距離感の違い。森博嗣さんはもともと遠いから変わらない。

 

あと、財務会計の本は、まさに僕が欲していたところ。複式簿記のどういう項目がどこに入るかみたいな話ではなくて、そもそもどういう思想でそういうシステムが出来上がったのかが気になっていたから、とても読み進めやすい。

 

僕が何を欲していて何を求めているかは未だに掴み切れないところはある。自分のことすら把握してないのに他人のことなんて分かるはずもなく。

 

そろそろ時間が押してきたので分かってきた素朴な自分の性質について。

 

貴方の為にっていう前置きがある言葉は全然聞かない。言い換えの問題として、自分が貴方にこうあって欲しいならやや聞くかもしれない。で、一番良いのは僕が僕の為に発した言葉に対して勝手に喜んでもらえること。喜んでもらえることは意図していないから、情けは人の為ならずみたいな感覚。

 

このご時世で頼れるものって免疫力しかなくて、免疫力には精神がまぁまぁ寄与していることを考えれば割と存在価値があるのかもしれない。僕は自分に接してくれた人はだいたい肯定している。

 

では、皆さんの免疫力が向上しますように。

 

おしまい。