ていし

 

 

夕方に水を飲んでいたコップを片付けようとしたらまだ少し入っていて不幸にもキーボードにぶちまけてしましまった。日記を書こうとした段階でバグっているのに気付く。あーあという感じ。今回はたまたまBluetoothの、スマホしかない時期に使っていたキーボードを引っ張りだしてアルコールで拭いてなんとかなった。これはこれで良い感触。まだ使えるとは思ってなかったけど。

 

ただ、この日記の中に存在する僕もこういう些細な偶然で消えるのだなと思った。当たり前。スマホで書くこともできるけどそうすると文体がブレる。すなわち存在もズレる。存在はとても確固した物理的なものだという認識が一般論かもしれないけど、色々収集してきた僕の中では月がどう見えるかくらいの曖昧なものでしかない。だから、このキーボードで綴る自分と物理的な自分は微妙に違うし、誰かに対する自分とその他の人に対しての自分も違う。全部本心ではあるけど、本心だからと言って本質であるとは限らない。

 

しかし、昨日の日記はなかなか過激な恋文だったな。書く前の思考ではもっとやんわり書くつもりだったのだけど、書いてしまったものはしょうがない。愛おしいではなく、ありがたいという言葉を遣うつもりだった。あんまり無茶してくれるなと思ってしまうのは、まぁまぁ前者だろうけど。義務が積み重なるという話はもっと書くこともあったような。

 

存在で読み解くと、僕は誰かが僕に見せてくれた姿だけで判断している。これで失敗してきたのは、僕が僕の判断を貫徹できなかったことにある。社会常識的なものさしを語る人は多いし、それが大人だとしたり顔で語る人が多い。これを導入したのが間違いだった。知っていること自体は大事なのかもしれないけど、もともと見ているものが違うし。別ルートだけど、僕はもう僕を都合よく使おうとする人のことは分かると思う。最初に分かったのが、、これはまぁ良いか。

 

なんだかこういう考え方というか人格は思春期と変わってないような気もするけど、別にただ自己完結している訳でもないから、少し違って、もともとこんな人格だったということでしかないのかもしれない。別に自己完結している訳でもないし、勉強はやめられないし、もう、世界を分かることはあきらめたという意味では大人と等しいはず。

 

でも、素朴に考えて、正解があるっていう感覚の方が子供っぽい気がしないでもない。真夜中のすべての光で、人工知能ABという選択肢がある時にどちらも選ばないということを選べないという話があった。いわゆるトコッロ問題で、トロッコがそのまま進んだら5人死ぬけど、方向を切り替えたら1人が死ぬみたいな。これってハンターハンターの試験の時にもあった。恋人と母親のどちらを救うか。答えは無回答。答えがあることで満足できる精神性はとても幼稚だという話。ほんとにどちらかを選ばないといけない状況は来るかもしれないけど、前もって考えた他人事的正解が適用できるとも思わない。

 

僕はまぁまぁこういう状況を想定する。誰を死なすかじゃなくて自分が死ぬときのこと。クレバスに挟まってとか事故とかであと数分で死ぬ。スマホは通じる状況で誰にメッセージを残すか。母親は美化するから駄目だな思うし、僕のスマホもうほとんど人とのショートカットという機能がない。というところで、想い人にどうもありがとうございましたって送るだろうなって。想い人なら自分の中で美化せずに、なおかつ適度に忘れてくれるだろうなという安心感。

 

いや、なんの話だっけ。義務には何らかの目的とか効果が前提にある。このご時世で一生懸命走っている人も免疫力の向上を目的としているのかもしれないけど、3周目に入った免疫学の本は適度な運動は良い(強迫的でない限り!)って書いていた。運動するならちゃんと楽しまなきゃならない。

 

想い人は結局のところ個人的なメッセージをほとんど送ってくれることは無かったのだけど、それでも問題はないし、結果としての好意は変わらない。現実的な好意から離れるともっと面白いでしょう貴方はという興味が勝る。関係ない他人よりは一目置かれている気がするし。でも、もし、自分の人格を補強するためだけの存在としているなら興ざめするかもしれない。きっとそんなことはないけど。

 

僕の存在で言えば、切り捨てないよって言ってくれた誰かさん達にも救われている。別にこれで何か現実的な欲求が充足できることはないけど、なんの義務もないところでこの言葉はとても暖かい。という感じで、僕が見ているのは、一般的な関係性ではなく、あなたと僕の関係性でしかない。んで、関係とは、思いやりとか抽象的なものではなく、相手がどう見えるかっていう全人格的なもの。僕は温い関係なんて求めていないし。

 

というところで、僕が見ているのは人の権利的な思考。どの時代もこの時代も義務的な思考あるけど、権利的な思考ができるようになるのは歴史的には今に近い。

 

 

そもそも考えるとはなんぞやという話。

 

ロダンの考えるの人の解説のところで地獄について考えているとか、いや、地獄にまつわる現実的な苦悩を考えているのだとのこと。考えることは苦しいっていうのも確かに正しいんだけど、定義が一元化している。

 

これは僕の定義だと悩みでしかない。どうしようもないことに脳の資源を費やす。考えるにはもっと広い意味があって、僕は自分と全く関係ないことを自分のものとできることが考えるのが最上級としているのだけど。

 

時間切れ。おやすみなさい。