素朴

 

塩もみした白菜はなんとなく甘酢漬け風のアレンジをしたのだけど、もはや既成品のような味がする。既製品と同等の味というのは果たして自らに対する褒め言葉なのだろうか。味覚がきっと一番世界に影響されるもので、美味しさはきっと経口摂取したものの占有率による。慣れたものが一番おいしいという意味合い。

 

とすれば、社会美の社会を構成員として味わうというのも慣れたところを前提としているのだろうなと思った。学生が書いたエッセイを読んだけど、個人的にはやや胡散臭さ。何が胡散臭いかというと言語化はまぁまぁ大変だけど、全然その人じゃないところが面白くない。いや、読み物としては面白いけど、人としては面白くないというだけ。

 

社会と言えば、僕はこのご時世でほんと穏やかになっている。穏やかさの定義はややニュアンスが違うのだけど。

 

さて、今日の話。

 

危機感持ったかって言った同一人物が、あんまり早く来るな(朝礼の10分前くらい)って言っていて、僕は早く移動した方が(みんなの)リスクが軽減できるんじゃないですかって応えたら、職場の(自分の)リスクが高まるだろうと返された。とても人間的で良き。むき出しの倫理感。自分が良ければそれでよし。人間の前の生物的本能よね。

 

こういう文脈の人達に、そもそも僕はテレビを持ってないから世界の状況なんて知りませんって言ったら発狂はしないまでも非常識認定されるに違いない。けどもあなた方よりはリスク回避して生きていますとは言ってはいけない

 

本当に必要な情報は自分で得るから、世界の不安感を煽る情報なんて要らない。テレビは視聴率を指向しているのだから、当然にもっと見なきゃならないと思わせなきゃいけない訳で。

 

誰かさんがおりこうさんと評した、並ぶときに間隔を空ける行為も確かに喜劇的ではある。自分に関係があることならたやすくできるんだーって。個人的には、薬局の動線は問題ないけど、スーパーの動線は間隔空けないと人が通れないだろうと常々思っていたことが通りやすくなっていて良きかなと。

 

あと、個人的にこの距離感がパーソナルスペースでちょうど良くて、ほんとに穏やか。無駄に対話しなくても良いし、他人が近くないし、物理的にどうでも良い人が無駄に触ってきたりもしないし。触るっていう行為はそもそも許して許された領域でしかあってはならないものという僕の観念が現実化していて面白い。面白くない? 他人に触れるってとても尊いことだっていうのが逆説的に現実化している。

 

もう一個。先が分からないって誰かが言っていたのが聞こえてきたけど、僕の素朴な観念では、先が分からないのは当たり前で、今さらかいなって思う。なんで今まで自分がいつ死ぬか分からないっていう想像ができなかったのだろうって。自分が安全圏に居るって誰が決めたのか知らんけど、普通に若くして死ぬ症例はあるし、何を根拠にして自分が安全圏で生存が継続すると思っていたのだろうとしか思わない。

 

どれだけ健康で過ごして居ても人は突発的に死ぬ。可能性が限りなく低くてもその一回に当たったらどうしようもない。例えば隕石が落ちてくるかもしれないし、これが非現実なら地震で自分が住んでいる建物が倒壊して足を挟まれてあと何分かで死ぬという状況なら可能性として想像できるはず。

 

このおりこうさん的世界において、人がどう人であるのかって考えると、やはり主観的に自分の世界が確固したものだから、別に他人なんて自分が確固とした前提で関係している存在でしかないのだろうなと。

 

これはこれで良きかと思う。僕がこのご時世でちょうど良いと感じるのは、空間の占有率が意味を持たないことがむき出しになったこと。

 

 

僕はもともと時系列で占有率高いことに愛着がない。一番長いのは母親だろうけど、母親に対して暖かさは全く感じない。むしろ今の観測だととっても冷たい。

 

暖かさを自分にとって有意なもの定義してみて、嬉しさと暖かさは別問題だと思われる。

 

おしまい。