徒然の螺旋

避難所

そつう

 

 

不穏は杞憂かもしれない。まだ居ても良いか。

 

 

植物図鑑読んで料理脳が刺激されて、安い新玉ねぎとゴーヤを買ってきた。新玉ねぎは三杯酢で漬けたレシピを見てそういう方向にしようと思ったけど、醤油の色で黒ずむのもよろしくないかと塩に替えてオリーブオイルを加えた。もはや別のレシピだけど、血液サラサラにはなりそう。ゴーヤはチャンプルーが定番だけど、卵は別に使っているから、シイタケを加えてみそ炒め。苦みが良い感じ。植物図鑑でフキノトウの苦みが凄いっていうエピソードがあったけどあんまり覚えていないのは、うまく避けて作ってくれていたのか。フキとか土筆の佃煮は覚えている。てんぷらではウドとタラの芽が好きだった。正直、おばあちゃんが作ってくれるさつまいもの天ぷらは苦手。甘くておかずにならない。日本酒とか焼酎には合うのかもしれないけど。ありがたみが分かるのは後から。

 

昨日昔のことを考えながら書いていたからか、夢に古い方の実家が出てきた。高1と高2の間に実家が新築された。徒歩5分以内の梨の木があって特に使っていなかったちょっとした広場。古い方の実家は二階から祖父母の実家に階段で繋がっていて、お風呂は祖父母の家にしかないという今思えば面白い造り。階段の先はトイレだったからいつも暗くて、小さい頃お風呂に向かう道が怖いから走り抜けていた。なんだか小さい頃はなんとも思わなかったけど、ある意味、離れの延長みたいに作られた家だったのだろうなと微妙な思惑が分かる。独立した生活ができなかったから、母親は無理してでも近くでも家を建てなきゃならなかった。

 

この話はさておき。5人家族にしては狭かったし、自分の部屋なんてなかったのだけど、本はやたらと多い家だった。立派な百科事典があった。ほとんど中身も知らない。新居の方に移っているから読もうと思えば読めるけど、人の家にはこういうものがあるものだとしばらく思っていたくらい。何分冊だろう。あ~うで一冊とかそんなやつ。あと部屋にも立派な漫画棚を父親が作ってくれた。天井間際手が届くところの壁に板を付けて。でもそのあと父親は亡くなるし僕は大阪に出るしで、そのまま漫画を放置していたら、窓が割れて吹き曝しになって朽ちてしまった。うしおととらとか封神演義とか全巻揃えていたのだけどなぁ。

 

という朽ちた部屋から夢が始まった。三姉弟妹そろって、冬休みの高校の登校日という存在しない日の為に身支度を整えている。当時よく、よくも知らない他人と過ごせていたなと思うけど、それはそれしか世界になかったからだと思う。姉のことも妹のことも母のことだって、僕は良く知らない。長く過ごしただけ。よく知らなくも過ごせるという証左ではある。

 

そして、今は学ランではなくてスーツだったって気付いて終わる。

 

後の二度寝の夢もまぁまぁ地元のことだった。僕にとって親族で一番近かったのは父親の妹の子供である1つ下の従妹くらいだったかなぁ。それでも疎外感がなくなったことはない。当然に今思えばだけど。少なくとももっと他人の友人とか恋人さんの方が、僕のことをちゃんと個人で見てくれていて温かいような気がしていた。

 

しかし今や、この温かいすらも後付けぽいという疑念がある。別に温かくなくても親切にはできるし、この文脈でないと他人を独立した人格として認識できないのかもしれないという意味で。

 

長く過ごせば開示できるなんてことはない。

 

これって全然暗い話ではないのだけど、意味分かるかしら。

参考されるのは人間関係のほとんどが破綻しそうだからやめてくれよって思うけど。

 

ともあれ。

 

少し遡って、昨日寝る前に、つぶやき場を見に行ったら、めちゃくちゃ美味しくてキレッキレの文章が在りまして。

 

その前に、想い人という表記はやめとこうかと思った話。なんか肩書が嫌いというのを日記の方で見たのもあるし、この表記は自分の中で感情を遊ばせるための表現でしかないから、変えても中身は変わらない。恋愛感情の方向での「好き」は自他の境界を曖昧にすることで、相手との関係を継続したいという原動力にはなりうるけど、別にこれがなくても外が何か変わることはない。ということで、今まで想い人と呼んでいた人は波さんと表記されます。えこひいきの水準が1つ下がる。というとアレだけど、ちゃんと厳密に他人として見られた方がよさげという読み。

 

戻ってきて。昨日寝る前に一読したとき、アドレナリンというか、やっぱりこの人好きだわって嬉しくなりながら寝た。起きて二度寝の前にも読んで、出勤前にも読んで昼休みにも読んで、今も読み返してきた。今読んだら、やはり、ひらがなと漢字のバランスで絵を描いているなぁって。何回読み返すのか。

 

で波さんに表記を変える意味のところで思ったことだけど、僕はこの2、3年の記憶を取っ払って読んだとしても、最初に日記を見つけたのと同じく中の人が気になるだろう味だなって。美味しい料理を食べたとき、これはどうやって作るのだろうって思うことを越えた、これは誰が作っているのだろうという興味。

 

変わっていないって自己評価らしいけど、開示できる媒体が拡がっているではないかと言いたい。個人的な日記にしか書けなかった思想を自分の本名で書いている今。

 

何目線かって言われたら、なんだろうな、単なる消費者です、で良いのか。

 

これだけキレッキレの文章書けたらさぞかし気持ち良いだろうなって思った。うらやましいではなく、単なるすげーな。

 

中身の話。

 

思想的背景が気になるのは、舞台に上がる人とそれ以外の人で分ける線引き。これって一般的なようにも思うけど、僕の分け方が違うからかも。

 

ここで言う舞台はライブのステージなのだけど、確かにライブに行くことが趣味な人ならこの感覚は分かりそう。

 

僕はあんまり掘っていない分野だけど、舞台の起原は彼岸に対する儀式だと思っている。宗教的儀式は神話の再現だし、獅子舞とか神楽とか、一定の拍子が集団的トランスになるから、音楽の起原とも近い。つまり、自分が含まれていない世界に在るものが舞台という捉え方。

 

この定義で言えば、ニュースも1つの舞台だとされそうな。陶酔も含んだってなるとライブとかコンクールとか演劇とかに限定されるけど、だとすれば、自分は部外者ではないような。

 

舞台をまなざすとき、まなざす人も舞台装置に含まれているという意味で。

 

まなざすも、僕が初めて知ったのは現象学の本だったかという感じで、とても分かりにくい言葉。視線は名詞だけど、それを動詞にするってことは、人の視覚的世界は客観的なものではなくて、恣意的というか目的的なものでしかないっていうことにならないだろうか。

 

こういう意味で波さんを眺めたとき、フォトグラファーには申し訳ないけど、写真作品の味が分からない。一回だけ写真を撮っている波さんを見たのだけど、ぼくのまなざしの中では舞台に上がっている人だった。とても格好いいし綺麗な立ち振る舞いだったから、もっと眺めて居たかった。

 

ここまでかな。

 

 

 

では、また明日。

 

おやすみなさい。