ホコリ

 夢の話から。無駄(でもないかも)な罪悪感を抱いていたからかなかなか嫌な夢を見た。どういう設計か分からない建物だけど。三角形の座敷みたいなところで、ガラス張りで薄いカーテンが貼ってある部屋。そこで小学生くらいの自分が姉と妹と雑魚寝している。外は穏やかな景色。そこに人影が顕れて。聞こえる声は無表情な男性の声で、「お叱り―お叱り―、、、」。気味悪いなと話していると、カーテンと窓ガラス越しから見えるこの家の入口から入ってくるのが見えて。なんで鍵を閉めなかったのだとなってそこからはひたすら追いかけられる悪夢。姿も見たけど全然知らない幸が薄そうなこじんまりしたおじさんだった。

 この罪悪感はなんだろうと日中考えていた訳ではなく、今思いついた。人と関係しているとき、なんとなく悪いことをしている感覚があるなと。外界を善悪で判断することはやめているのになにが引っかかるのかと思うとここ。この話は後にするか。

 目が覚めたらいつもよりだいぶ早くて、二度寝の夢の為にネットストーキングをすると一瞬良い夢が見られた。とても幸せな夢。書けないけど。ただそれは一瞬でその流れで僕がいかに集団にそぐわないのかが顕れる夢だった。いや、物理世界の僕は集団ではだいたい無色で場を乱さないけど、それができないようになりつつあるということなのかどうなのか。

 さておき。日常はつつがなく。もっとできそうだなという感じ。昨日より今日が良いのは当たり前というフレーズはネットストーキングして得た情報からようつべでお弁当作っている曲で歌われていたものだけど、まさにそんな感じ。ベルグソンさんも人の印象は進行しかないと書いている。これは言葉にした時点で全部過去だみたいな文脈だからやや違うけど。別に成功体験ではなく、ちゃんと蓄積を糧にできたか。一回通り過ぎた事象は二回目以降に再現できること。そのためには過去の精査が必要。あ、これはもちろん仕事の話。対人はいつも一回目。次の一回目のために蓄積を駆使するという意味ではありだけど、ちゃんと相手用に加工しないと。

 ところで、好きは自己愛だから大事に移行しなきゃ関係は保てないという趣旨の記事を見かけた。確かに、なんとなくわかるけど、どちらにせよ自分にとってという意味であるなら、自己愛の程度問題なのでは、という気がする。大事という言葉の意味も曲者で。好きも大事も、対ヒト以外にも使える言葉で、好きなモノより大事なモノの方が当人にとって価値が高いという観念を前提とした概念だと思われるわけで。いや、人と物は全然違うっていう反論も分かるけど、ただ、ある人格にとって他人は対象でしかないというは明らかで。対象っていうのは、自分ではないということ。自分にとっての都合の良さが好きに言い換えられていることもあるし、自分に価値を置いてくれる反面として大事があるかもしれない。

 ベルグソンさん曰く感情に対する言葉の凝固性能はすこぶる高いらしいから、その感情を表現した中身を分析する必要があるかもしれない。ちなみに僕の好きは、僕が好きであればそれで良いっていう自己愛とはほぼ無関係な概念。自分自身はちゃんと別にある。大事は、何かをしてくれるとか認めてくれることではなくて、存在を許してくれること。モノに対する好き、大事とは全然違う。

 自分の目で見えたものは大事。今日の月は明るかったように見えたし、帰り道、あ、これ梅のつぼみかなって焦点が合うところとか。焦点を当てることが無ければ日常なんて光速で過去になって、ただ単に通り過ぎるだけ。梅のつぼみがピンク色になるのは時節的に早すぎると思うのだけど、錯覚だったのかしら。今の時代品種改良で季節関係なく花が咲いているみたいだからありうるか。紫陽花もまだ咲いていたし。

 もう一回戻ってくるけど、自分のことを好きだと評するならここまではするのが当たり前みたいな観念だったらたしかに自己愛だと思う。主体的じゃなくて環境として好きという意味。でも、この概念って相手を自分と同等の人とはしていないよなと。相手にだって環境はある訳で、自分が使った分が返って来いならもはや契約だし。恋愛の最終形が結婚だとすれば、分からない話でもない。

 大事で言うと、僕はこれだけ読書狂だけど、本を大事にはしていないと評される。これは本という物質より本の中身を大事にしているから、本の見てくれがどう変わろうと意味が変わらないということだけど、一般的には本を大事にするって、本をきっちり本棚に収めるなり手入れするなりして物質的な本を保つために時間をかけることなはず。

 想い人の本も、たぶん最終的にはそういうことになるだろうけど、これで想い人的に大事にされたことになるのかは気になるところ。ぼろぼろになるまで読み返すかもしれない。媒体としての物質が消えても当人の中に残るものが大事だと思うですが、どうでしょう。

 だから集団にそぐわないのだろうなというところもある。関係を大事にしているかどうかって、集団においてはほぼ外形で判断される訳で。例えばそもそも参加するとか交信は頻繁にするとか、一番悪いのは概念の統一感。憲法上の集会の自由の存在意義とほぼ重なりそう。

 そうして、僕の素朴な罪悪感の話。まだはっきり言語化できるほどは分析できていない。時系列で色々考えていたけど、もはや過去だし。例えば最近まで最有力だったのは、自己の価値が低いから自分と接することに消費することに対する申し訳なさという説。でも、今年になって、そこではないなとなった。次の有力説は、相手の概念の中での僕ではないけど、相手の概念を壊さないようにするという嘘をついていること。これは通説になりそう。別に僕は相手からの自分に対する観念をあえて変えようとは思わないから、そのままでええわってなる。他人の中に居る自分と、自分自身は違うし、もっと言えば自分自身すら違うし。

 という世界で生きながら、今回の罪悪感はピンポイントかなと思うところもあって。想い人に対して好き好き発信しているのだけど、これはいつまでできることなのだろうとか、何か強制させている面はないかとか、鬱陶しくないかとか思っているのに継続してないないかという悲観的罪悪感。当人から嬉しいと言われもこの感覚は拭えないという、経験的呪いみたいなもの。言葉ではそう言ってくれているけど、ほんとうは相手は僕を要らないと思っているのに無理やり場所を取っているのではないかという概念。

 だから、自分と無関係に、好きも大事も在る。という概念にさいなまれたのでしばらく誰にも一方的に発信できないだろうな。世界には全く関係ないから問題ないけれど。

 

 では、皆さん体調崩しませんように。

 

 おやすみなさい。

 

 

 

 

切り取り

 濡れそぼる猫で始まり雲透かす月で終わった日。

激しく降った痕跡を残して、世界を平等に濡らして去った雨の匂いを感じながらの出勤。猫は天気予報より精度があると思うのだけど、何故濡れていたのだろう。濡れるしかなかったというのはなかなか考えにくい。なんだかまるまるしていたし、車の下という雨宿りするスペースはたくさんあるわけで。これが全然関係ない朝シャンから逃げ出したか、濡れたかったからだということなのかで全然違う。人に近くなると動物も未来が予知できなくなるのかもしれない。
帰り。雲間から星もちょこちょこ主張していた。星座はあまり分からないけど、おそらく1つの星座はまるまる見えていた。地元の空を言語化したから、大阪の空もそこそこやるだろうというのを見せてくれたのかも。駐車場の猫はあくびをしながらーって鼻歌を歌いながら帰る。いや熱唱か。
中間。風がとても強いお昼時間。母親から連絡下さいってメッセージが届いていたから、言葉で「元気です。」とだけ返した。これで生存確認できたと思うのか、いや連絡とは電話だろうと思うのかは知らない。まぁ仕事前に電話で発信してくるくらいだから、たぶん自分の範疇でという観念だと思う。でも、なんとなく、母親が僕に対してどう思っているのかがどうでも良くなっている。どういう手練手管を使ってくるのか。音信断絶になった姉には手紙を送ったらしいから、手紙来たら何万文字くらいの手紙を返信しても良いかもしれない。ただ、エネルギーの無駄だけど。それより、息子は気まぐれであるという観念をもっと植え付けた方が楽。文字を綴ることに特に苦がないのは日記を見ていれば分かるだろうけど、交信の中の言葉は勝手が違う。誰かに何かを伝えるなら言葉は必要最小限であるべき。それだけを伝えたいのであれば。
ともあれ体重いなぁと体感しながら木にくっついた枯れ葉を眺めていたら、その中に颯爽と、いや孤高に枯れ葉に紛れて立っているカラフルな小鳥に目を奪われた。カラフルという当て言葉は不適切。全体的にはモノトーンなのだけど、鮮やかなオレンジと赤のラインが入っている感じ。この鳥の名前を知っている人が見ればあぁこれかになるだろうけど、知らない人でも自分の心象からなんとか想像できるのが言葉の2次的用法。なんにせよ格好良い鳥だった。
こんな1日。あと、補足。僕が同期のことをなんとなく悪い意味で気になるのは、ちょっと姉に近い性質を感じるからだろうなぁと思った。年齢も確か同じだし、人当たりが良いのも同じだけど、なんとなく乾いている。あんまり気にしないでおこう。
 さておきというか、さておかない。ベルグソンさんとも友達になれそうだと思った。今日読んだところは、感覚を言語化することとはなんぞやという部分で、言語化するということは必然的に固定化することになるとのこと。一般的には良く分かる。個人的世界は移り変わっているけど、それに普通は気付かない。何故なら。個人的生活より社会的生活の方が重要だから。「私たちは本能的に自分の印象を凝固させて、それを言語で表現しようとする傾向がある。」「私たちは感情そのものと、、、その対象を表現する言葉と混同することになる。」
 ざっくり訳すと、自分の感情が感情を表現する言葉になりがちということ。僕も多分そういう風にしていたけど、徐々に移行しつつある。印象を言葉で凝固するのではなくて、印象を写真に撮ったように一瞬切り取ったものが言葉としている。凝固するための言葉は客観だけど、切り取る言葉は主観。他責と自責に対応しているのだけど、この分析は秀逸だと思う。ベルグソンさん。
 とても理性的だけど、浸透はしなかったのだろうなぁと。人は素朴な本能、もとい社会的に継承された観念からはやすやすと逃れられない。この社会的っていうのも等しく共通している訳でもなくて、それぞれの素朴な生活圏という小さな社会がさらに大きな社会に繋がっている、階層構造をなすもの。自分の当たり前は他人の当たり前ではないという当たり前すら気付けない。
 そういう意味で、もっと思想の選択肢が狭かったのに生き残っている古典はとても歯ごたえがある。古典として生き残っている作品が全て普遍性を有しているとは一概には言えないけど。古事記は歴代の天皇がどれだけ子を産んだかみたいなパートになっていて、確かに子孫を残すのは寿命が短い時代においては繁栄の象徴だろうなとは思うけど、冒頭辺りのおいしさが全然ない。残してきた集合意志みたいな執念は流石だけど。
 無知の塔は食べ合わせが良いので、生物学とか共通感覚とか諸々ある。生物が繁栄したのはシンギュラリティがあったからだとのこと。複製ができることを前提として、複製の中でより良き個体が生き残っていって従来の基準が使えなくなることらしい。これと人の観念の時代性を照合すると、今の観念を正とすることは次世代に淘汰される観念でしかないなと。変な話、前世代の観念をそのまま是としていることもあるけど、これは明らかな恣意的な固定化。
 共通感覚の方は、記憶というか観念を司る器官はどこかという話で、松果体についての記述だった。そうして、この器官はリラックスホルモンを分泌するものだったりして、人の観念はホルモンに支配されているなぁとか。ホルモンバランスは男性体の僕より女性の方が良く実感されている。内的ホルモンに左右されるのが女性だとすれば、外的ホルモン(社会性)に支配されているのが男性みたいな均衡。気分によって思考が変わらないって宣える人はきっといない。
 ついでに、分析哲学と生物学の組み合わせ。人の細胞は日々入れ替わって周期的に違う物質になるけれど、それで自分が同一ではないとする人はいない。これは論理的にどうなるなかというと、同一性は入れ替わりとは無関係とするしかない。これを頭の中にしても、ある体感を通り過ぎた後の自分は変化している訳だけど、変化という観念自体が前後で人格に同一性があることの証左という。
 これで、いや、自分の人格はあくまで1つしかないと信じられる人はそれで良い。ベルグソンさん流に言うと、自分という印象を自分という言葉に凝固しているだけなのだけど。
 最後。僕が今年やたらと生き生きしているのは、自分を外から決める存在を排したからだろうなと。僕は前述のように自分の印象の言葉と自分自身を連結させていないし。想い人が好きなのもここにあるから最先端。自分自身であることと自己表現は別だし、自分が表現された言葉の心地よさにもたれかかるのも違う。
 じゃあ何が存在になるのかというと、何にも繋がっていない印象。これは別に言語化する必要がない。印象を印象のままで保てるかどうか。例えば供給してくれるからとか需要があるからとかで自他の人格を決めるのであれば、繋がった中の話。
 繋がりはたまたまでしかない。

 想い人への言葉を綴りたい衝動もあるけれど、もったいないので、個人的に発信するかやめとくかはあとで決めよう。

 では、皆さん言葉に惑わされませんように。
 

 

掘り下げ

 本日は雨天だったため、お弁当は図書館の隣にある市の共有スペースで食べた。ふと目を上げると、宇治の温室植物園で今の時期にツアーやっていますよというポスター。こんなに離れたでも行政区間同士に繋がりがとか無粋なことが頭に浮かびつつ。植物園、是非とも行きたい。ツアーは要らないけど。人工で整えられた植物だとしても植物の集まりはとても良き。もう京都は無条件に好きもある。

 ここのところ実家のことをぼろくそに評していているけど、山はとても好き。「羊と鋼の森」という小説を読んだ時、僕の原風景は実家の周りにある山と森だろうなと。都会人にはどんな山か想像もできないだろうけど、一応道路はあるから車は通れるけど、徒歩圏内にイノブタの糞塚がある、みたいな。そういうところを割と1人で歩き回っていた小さな頃。動物とは会わなかったけど。飼っていた猫がモグラを狩ってきたとかはあったけど。

 ほぼ野生児みたいだけど、まさにそんな感じ。なんで1人かと言うと、友達のうちまでとても遠いから。徒歩しかない状況で1時間くらいかかるとか。あまり遊びには行かせてもらえなかったし。これって母親が自分ちの環境をあまり外に漏らせたくなかったのかもしれないけど、真相は知らない。

 そうして、大学以降、帰省したときも、散歩は必ずしていた。昼間は植物の謳歌を鑑賞して街灯皆無だから夜なんて完全に暗闇。ほぼ自然の営みと変わらない。星の多さが全然違う。生活するような所ではない。ところで18年くらい生きてきた。最後の辺りは原付のおかげで随分と遊んでいたけども。

 そうして、一番好きな景色が、裏山の頂上から望む景色。たぶんあそこを生活圏にしている人だれ一人見てないと思うけど、それはしょうがない。生活の場の美しさを見る余裕なんてないだろうし。いつか誰かに見てもらいたいなと思っていたことを思い出した。そんな機会は一切なかったし、これからもきっとない。次帰った時はせめて写真に撮りたいとは思っているけどたぶんもう整備がされていないだろうから、草ボーボーだろうなぁ。車でどこまでいけるのか。山頂付近にある祠を整備する人はきっといないだろうし。どんな景色かは僕の表現能力の限界まで描写できるけれど、ここまで来るともはや無粋か。某県の某地方の標高300くらいのちっぽけな山だけどなんだかんだ僕の原風景なので。

 ここまで、宇治の植物園から引っ張り出された1つの想起。ひっぱり出すのはやはり語彙で。語彙は、広辞苑の言葉をいっぱい覚えることではない。語彙はきっと体感と思考の連結で、連結のためにはどちらも不可欠。植物に親和性を感じるのは、植物は対象でしかないないというところ。

 なんだか引きこもり9日間を通り過ぎて、随分吹っ切れたというかすっきりしたというか、主観的に生きることに馴染んだみたい。今日たまたまラインのポップが上がってきて、母親から、「元気ですか」っていう冒頭のメッセージが届いていたことが見えた。従来の自分であれば、返すべきという義務が生じるはずだけど、義務は浮かばず、あぁどうせまた心配していますとかが続くのだろうなぁと他人事の読み方。ならいざ知らず、19の「あの紙ヒコーキくもりぞらわって」が流れてくるという。年代がバレる。

 元気ですか。っていう送信って、厳密に言えば返し方として元気ですとしか言いようがないから、本当に返信を求めている言葉ではないだろうなと。いや違うな。返信は切実に求めているか。自分が認識する範疇に相手を留めたい言葉。元気っていう言葉は自分を表するときに使うものであって、他人が元気かどうかなんて一生分からん。

 そもそもこんな曖昧な言葉を使うはタブーにしたいところ。旧来の言葉観念は一新しなきゃならない。という自己刷新観念。周りの人が遣っているようにしか遣わないのが言葉の一次的な機能だから、ちゃんと自分の言葉で使えるようにしなければ。少なくとも元気は廃していいな。たぶんこういう言葉って、言葉の中身を考えずにざっくり交信するために生まれている。僕は交信ではなく受信と発信はきちんと分けたい立場。

 元気ですかじゃなくて、元気かどうか知りたいので連絡下さいっていう主体的な言葉だったらまだ分かる。この違いは厳密に言語化できないけど、連絡下さいっていうところに意志があるし、意志が応えられるかどうかも相手を自分と同じような人格で見ていれば分からないだろうと。受信と発信を分けたら元気って言葉に意味がない。

 発信としてあるなら、元気だったらいいなーくらい。これは発信ですらないと言えばそうだけど。

 ちなみに、19もゆずも好き。あの時代で言うと、シャムシェイドとか諸々も。1/3の純情な感情。全く関係ないけど、今日ネットの記事を見ていたら、日本の教育は形式主義だっていう流れで、一方的な情報は1/10しか伝わらないっていうのがあって、たまたま繋がった。壊れるほど愛しても1/10しか伝わらないのが正解。笑

 一方的な感情は相手が自分の範疇に居て欲しい自己愛だし。僕の勝手理論とはずいぶん違う。一方的な感情ではあるけど、別に僕が想った通りに返ってくることで満たされるなんてことはない。いや満たされるかもしれないけど、それはたまたまということ。受信と発信を分けるというのは、自分と他人を個人として分けることに等しい。面倒だからやらない方がおすすめ。

そういえば、物理と物語って一字違いだったのを自分の日記の並びを見て初めて気づいた。確かに、物のことわりと物を語るって観念としてはとても近いところにあるけど、僕の従来の視点では見えなかった。物理学の本を通したからだろうなと。物理学も、語義を放棄して物自体は把握できないっていう学問になっているようだし、物を記述することも物自体は言葉にできないことを前提としている。

 なので、自分から捉えられる現実を客観的に評することはできないから、現実的っていう言葉も放棄して、体感的にはってことになる。物理的に云々みたいなことは物理学に精通していないし、法学に精通していない人は不倫を犯罪と同等に評するし。

ここまでくるとやはり、貴方はこういう人だって言ってくる人ってほとんどろくなものではない。結果から考えるという意味では、とても脳科学的ではある。脳は現実化したことに対して理由を後付けすることで整合性を保って省エネする傾向があるのは研究で実証されているようだし。

 僕は異星人なので、人は皆異星人であって、繋がると感じたことは、本当は異質なものを共通感覚で無理矢理一緒にしているのではと思っている。その異質さを把握している人はたぶん他星人に怒れないし、近い人をえこひいきするみたいな感覚にはならない。

 僕がえこひいきする星人は、単に僕が好きだからであって、僕の体感が良くなるからではない。地球人の関係は切れたから、ここからは異星人との関係が生まれるのではとか、は空想の範疇。

 空想は何も繋がっていない、妄想は現実に起こり得るけどほぼ起こらない、想像は現実に起こりうる可能性がやや高い。

 想い人へののろけは開示しすぎて調子に乗っていたので自粛。でもこの人が生きているだけハッピーだなと勝手に想える。とくに何か交換できた覚えもなし。気になるのは、何か緊張を伴って送信しているように見受けられるところ。知らんけど。

 最後。異星人的交信理論だと、本当の言葉とは、自分を度外視したものだと思う。そんなものはないかありうるかの感覚が分水嶺かなぁ。

 まぁ良いや。肉体は地球人なので、睡眠は大事。

 

 では、皆さんが幸せでありますように。

 

おしまい。

 

 

 

物語的自己像

 こんばんは。

 

 初仕事だったけど、なんというか11人に時間をかけ過ぎなのかもしれない。同期にもだいぶ離されているし。まぁ運もあるけれど、運だけであれば帳尻は合うような。別に雑談は全くしていないけど、エネルギーの配分が悪いのかもしれない。通話時間が長い。そのうち指摘されるようであれば変えなければならないだろうなぁ。

 さておき。昨日の続きだけど、書き終わって考えていたら、僕の始まりは人間不信ではないなと。他人のことはどうでも良いこと、まぁ当たり障りない関係というか流される関係性の構築ばかりするようになったけど、それは葉っぱみたいなもの。本質は、どうしようもないやるせなさというか、無力感だろうなと、少し枕を濡らした。

 母親は母親で自縄自縛的な母としての役割に対して限界があった訳で、それ自体は特に恨んでない。外界を恨みだしたら何処にでも火種はできるし。それよりも、父親の味方になれなかった自分が嫌だったという自己否定の思想。でも、なんか違うかなと思うところもあって。僕が大人の観念が嫌いな理由。父親が緩やかに死に向かっていることを大人であれば皆分かっていたはず。依存症が攻撃的になってもう放っておくしかないではなくて、父親は別に酔っていても当たり散らしたりはしなかった。静かに消えていった。臭かったけど。というところで、何故か親族の大人皆父の死を美談にしていた訳だけど、親族の大人は誰でも父親の味方になりうる地位があった訳で。別に何か具体的に支援するとかではなくて、姿勢の話。特に母の親族は母を諫めることができたはず。なんで皆こんな大人になりたいのだろうと。

 大人が自他の境界をはっきりして分別をつけるという定義だとすれば、僕は一生大人でなくてよい。親族という集団の中で自他の役割を付けるとか、どこに意志があるのか。まぁこれも自分ができなかったことから来ているとばっちり観念なのだけど。そういう人たちが集まりのある度に僕の父親は良い人だったとか、僕が父に似てきたと集会の肴にするわけで。今考えると反吐が出る。大人の定義は必然的に子供ではないを含意するけれど、ということは、子供は大人より下だから、対等に扱わなくて良いとなりかねない。保護主義はいたわりみたいに見えるけど、実際は自分より下、ないし、弱いものだという認識が前提にある。まぁでもこういうヒエラルキーがないと家族は成り立たないというのも分かるけど。パターナリズムが好きじゃないのもここにある。

 あと、あるとすれば大人は正しいものという観念。これだとあんまり謝れなくなる。否を詫びるということは対等の世界の話であって、上下関係でそれをすると均衡が崩れるっている観念が前世代にはあったのだろうなぁ。母親が例えば、あの頃は済まなかったって子供達に折れていたら、おそらく分離はなかったろうなぁと。ごめんなさいとありがとうはどんな関係でも思ったときに使うべき。ということで想い人にとても失礼な言葉を投げた過去を見て、早く謝らなければと駆り立てられているなう。

 やっとここまで来たけれど、どれだけ悲しくて絶望にさいなまれても、この過去があったから今の僕がある訳で、これは揺るがせない。忘れたとしても無意識に固着して変に噴出してねじ曲がるから、こうやって言語化して意識した方が良い。別に僕は人の全てがこうなっているとも思っていないし、過去の言語化も僕のご都合主義で改竄されているかもしれないともしているから、別に過去に囚われている訳でもない。となってくるとなんだか自己カウンセリングみたいな行為。どれだけ潜っても自分の怒りにはたどり着けないのは、まだ不可視な領域があるのかしら。もう少し今に近いところだと怒りはあったけど、怒りで何かが解消された訳でもないから、怒りは基本的に要らない感情だとしている。怒りは欲望なのかね。やたらと怒っている人が自由に生きているようには見えない。

 ということで、ちょっと想い人に謝罪してきます。寛容すぎて意味が分からないのだけど。思い立ったらちゃんと現実化するのは大人の要素ではないよなぁ。ありがとうとごめんなさいはちゃんと言葉にすることを習っただろうに。

 謝ってきた。読まれるまでにタイムラグがあるのもとても良い。たぶん知らないだろうけど、新海誠の作品の中にロケットで地球から離れていくにつれてメッセージの受信がどんどん遅れていくというのがあるのだけど、そんな感じ。SFと和歌の距離感はとても近い。癖になる。

 僕の根っこの暗闇を救ってくれた想い人とへ妄想は、僕が過去と未来のどっちに重きを置いているかという面もある。別に未来に対する空想で過去が塗り替えられる訳ではないけど、今ここにおいては、どちらも比重が同じ。暗い気持ちも明るい気持ちも僕のもの。どちらもありがたいもの。ここに正しさとか自己肯定みたいな無駄な媒介はない。媒介の話はまた今度。

 そういえば、ちゃんと生物学の本を購入してきた。目の構造はなさそうだけど、文体が面白かったから。本当はごりごり専門的なものでも良かったのだけど、学者が書いたちょうど良い本という感じ。科学は正しいものじゃないっていう前提から始まったから先がとても楽しみ。生物の定義も、今の所3つの条件を満たしたものとされているけど、これは地球の生物しか知らないからで、宇宙の生物が発見されたら変わってくるだろうって。わくわく。たまたまなのかもしれないけど、こういう正しさを否定する本がじわじわと広がっているような。圧倒的シェアは、読んだだけで生活が変わるみたいな本だろうけど、そういうインスタントを求める人は、自分で考えるということはできない。時代は変わってきているなぁ。

 これは古本だけど、古代ギリシャには記憶術というのが流行っていたらしい。方法論としてはとても良さげ。何かを記憶しようとするとき、脳内の空間の中に記憶する情報と結びつけた場を作って、そこで情報を繋げていくということ。現代まで本としては残っているけど術として浸透していないのはなんでだろうと思うと、人はそんなに未知も考えることも求めない傾向があるのだろうなと。既存の価値観を自分で塗り替えることはある意味精神的な自死みたいものだし。記憶力もあったら良いなぁくらいなもので、今の自分を変えてまで得たいものでもない。古典の本が残っているのは、情報が限られた中でその人がひねり出したものだから。本当の知識は自分を壊す。

 もっと楽しい話を勝手に書きます。昨日現実的にあり得ることが乏しい妄想でドキドキして寝た。これは別にそれが物理的にあれば楽しいっていう意味ではなく、現実的にあるかもしれないの話。しかも想い人の現実に関する情報ほぼ皆無だから、場所設定を物理的に考えることがありうることで満足。その先は未知だからもう蛇足みたいなもの。

 そうして、早めに目が覚めてつぶやきを見ると、もっと物理世界的な楽しみがあるようで。その想像で寝られなかった。もともと文章に惚れたから好きになったのだけど、その人が製本した本が買えるというなんとも素晴らしい場。これは僕が日にちをすっぽかさない限りほぼ確実な現実。あくまでほぼだけど。確実な未来なんて存在しない。以下のろけ的想像。当人が見られる文章なので、ある意味ハードルを上げる行為だけど、世界はバタフライエフェクトだし。

 そのスペースに一目散に向かって、こんにちは、お疲れ様ですとか挨拶した後、触って良いですかって言う。そんで「夏の終わり」にやっと出会えたとか言いながら装丁を指でなぞる。想像の中の手触りがやたらと生生しくてよかった。ぞくぞくした。温度は移動しないからこそ触る行為が主体的な意味を持つ。移動するのも良いけど。そうして、買った後、想い人にゆっくりじっくり食べますねって言っていた。

 なんとも物語的だけど、これくらいのことはきっと普通に現実化できる。その先のやっぱり近くで見てもかわえぇですなとか、直に話せて嬉しいですは想像の中でもハードル高かった。

 面白いのは、こののろけ、全く公認ではないということ。頻繁に言葉を交信している訳でもないし、相手から特に好意の兆候を得た訳でもない。でもこういう一方的勝手な恋文を何故か寛容に受け取ってくれる。そういうところがとてもちょうど良い。僕以上の変人であることは確か。

 そうして、僕は物語的に生きているなぁと思いつつ、こういう生き方をしている限り言葉は枯渇しないと思う訳で。文字数も勝手に増えたな。物語的に生きるということは僕が作者ではなくて登場人物、でもなくて読者でしかないということ。

 

 では、皆さんが主人公でありますように。

 

 

 

 

 

 

物理的自己像

 もう少し誤字脱字に気をつけましょう。昨日の日記をざっくり見た感想。読んではいない。想いの重さはフィクションでしかないよなぁ。物理的に反映されたものから推測することはできるけど、別に何かの基準になるものでもない。

 さておき。明日から仕事なので外面を繕うために髪を切りに行ってきた。放っておいていた髭も剃って。髭はあごの形としては生えていたほうが良いらしい(美容系の直近元恋人さん曰く)けど、今の仕事じゃ生やせないという。当たりの方の理容師さん。幸先が良い。8日くらい人と話していなくても、対話のコミュニケーションには特に変わったところもない。今日は漫画の話だけではなくゲームの話をしていた。年末友人と集まってスマブラしていたとか、ドラクエ5ではフローラを花嫁に選んだとか、なかなか話しやすかった。

 ついでに、眉毛もぼさぼさだったので、毛抜きと眉毛用のはさみでなんとなく整えた。なんというか、外面を繕うための物理的コストがとても少なくて申し訳ねぇなと思う。まぁこのコストは良くも悪くも他人の物理的知覚に引っかからないというところにあるから、自分を繕うとは少し違う。もう少し頑張るならワックスで剛毛を整えるだけ。自分が装飾したいもの、であれば伊達眼鏡になる。デメリットは、どれだけ拭いてもガラス越しの世界は裸眼より不鮮明になるところ。毎日暗闇の中で文章カチカチ書いているのに一向に視力が悪くなる気配がない。読書習慣が影響しているのかどうかは不明。目の中にある筋肉?が日常的に伸縮しているかなのかどうなのか。次は生物学だなぁ。水晶体は濁っている気がするのだけど。

 装飾と言えば、冬場のロングコートのフォルムが見ていてとても好き。男女問わず綺麗な形の人は目で追ってしまう。馴染んでいるなぁって。僕も1着グレーのチェスターコートを持っているのだけど、去年末クリーニングに出しただけで1回も着ていない。装飾したいけど、あんまり馴染んでいるようには見えないため。電車で座る時とかやや煩わしいから、あんまりお手軽に着られないというもありきだけど。

 ただ、割と好評だったりするから、三次元の世界において自己評価なんぞあてにならんなという気もする。だから、三次元の物理世界では、相手がどう見えるかに付加された相手から自分がどう見えるかも興味対象にある。人格や人柄は顔に出るというのは経験的には分かるしなんとなく見える気がするけど、では、僕の顔はどういう風に見えているのだろうと。これって自分では永久に分からないことだし。そこから何かを採り入れようみたいな下心ではなく、単にどう見えるかが気になるだけ。

この辺りももう少し調整はできそう。他人がどう見えるかって結局は自分がどう見られてきたかの学習が起源で。だって自分のことは物理的に見られないし。僕は割と人を自分と相関付けて見ないけど、これがおそらく不思議に見えるのだろうと思う。ある意味冷たいことだけど、自分にとって危険はないか利になるかはあまり見えない。その視点で見れば自分が一番危険だと思っているし。

 まぁでも三次元世界から人格とか人柄を読み取れるとすれば、それは次元がもう1個増えている。他人の顔の中に他人が重ねてきた年輪を見ている訳で、時間という変数が追加されている。この年輪理論で言うと、他人に煩わされていない人の方が綺麗な感じ。あくまで感じ。

 そういえば、母親にはまだ返していない。怒っているというより不安がっているような気がする。という意味では母親に対しては下心満載で接していると言える。あくまで自己防衛のためだけど。親戚たちに僕がどう見られていたかみたいなことを思い出すと、帰る度に、父親と似てきたなみたいなことを言われてきた。世代を超えた時間性の話だけど、ここでは僕個人の精神性はなんの意味もない。父親を懐かしむための道具かよと。別に人格も出す気はないからとんとんだけど。

 

 

 そうして、少し生生しい話。

 ちょっとグロいので、苦手な人は読まないように。過去の言語化

 

 

 

母親が僕に強いことがあんまり言えないのは、僕が自〇するかもしれないと思っているから。ある意味良く見ている。確かにそういう精神性は全くなくはないし、定期的に音信不通になるのも見解を強化しているような。これは意図じゃなくて意志だけど。

 で、母親がそう思うのは、僕が父親の精神性を継承していると思っている罪悪感も含まれていると見ている。父親は最終的に脳梗塞だか脳卒中で亡くなったのだけど、直接の原因はアルコール依存症だった。最後の辺りはほんとひどくて、例えば冬場に冷水を満たしたお風呂に浸かっていたり、トイレじゃない家の廊下でトイレしたり。これに対して当時の僕がなんにも思わなかったのは、ある意味洗脳というか麻痺されていたとしか言いようがない。で、これを指揮していたのは明らかに母親で。母親も情緒不安定だったけど、今から見ると緩やかに向かわせていた。罵倒は日常だし人格否定も当たり前。

僕が唯一返りたいのはこの時系列。父親を孤立させた遠因に自分も関わっているし。書いていると泣けてきそう。当時はネットもないし、田舎だから何処かに相談するという発想すらないし。たぶんこういう家族生活が僕の精神性の根っこにどうしようもなく居座っている。一生の後悔である。他の誰かができれば他の誰かがすれば良いことだけど、可能性としては僕しか居なかったのに。この悲しさは僕のもの。

 母親含め、姉妹にも不信感を持っているのは、お葬式で、しれっと泣いていたこと。僕は全然泣けなかった。やっと泣けたのは棺を石で打つところ辺り。儀式に対する緊張もあったのだろうけど。剛毛が寝癖だったらしい。

 この二年後くらいに流星ワゴンという小説を読んで泣いてしまったことは秘密。

 もっとなんかおかしいよなって思ったのが、その何年後かに、母親が幽霊なんて存在しない。存在しているとすれば、父親はまず自分のところに出てくるだろうって笑い話みたいに言っていたこと。これを聞いた僕はなんであれだけのことをしてまだ自分のことを好いていると思えるのだって思っていた。死んだ人すら自分の為に使うのかと。

 でもあの苛烈な振る舞いをされても、父親は母親のことをきっと死ぬまで好きだったのだろうなと感じている。誰の悪口も言わなかった。酔っていても僕を含め誰にも否定的なことを言ったことがなかった。確かにある意味承継している。僕は否定的なことを言われたら反射するようになったからある意味進歩だけど。別にああいう風に死にたい訳でもない。

 この話何処かとか誰かに開示したことあったかな。あったような気もするけど、なかったような気もする。別にこの話で同情してくれみたいなことではない、のはここまで読んでいる人が居ればとっくに分かるだろうけど。

 と言う感じで、僕の根っこには人間不信の観念が根付いているのは否めない。これは自分すら信じていないということ。この意味ではああいう思春期がなければこういう人格にはならないという1つのモデルケースにはなりうるけど、姉も妹も居る訳で、どちらかというと母親寄りになるケースもある。人を使って自分を確立するタイプ。どちらも見てくれ良いし。

 でもまぁ良く脱却できてきつつある。誰かが自分の為に存在するが心配だとするのはやや行き過ぎ感はあるけどしょうがない。心配を純粋に観測できない。勝手理論だとできるけど。

 冒頭に戻って、想いの重さの推測は何をもって行われるのかいうと、発言じゃなくて行為だろうなと。自身の想いもそうしているけど、想いが成就すると交換が始まりそうで嫌だなぁって。

 

 もっと楽しいことを考えよう。

 

 僕の察しが悪いというか、そんなこと在り得ないと思っているからかスルーしたけど、あれって僕が飲みに行きたいって言ったことに対する返信の呟きなのかと捉え直した。捉え直しても、現実感は全くないけど。

 僕としては、想い人の生活圏から離れているけどそんなに遠くないアウェーのことを想定していたから、具体的な飲み場所までは。こっちの界隈であれば美味しいところはあるけれど、鶏の刺身が食べられる人かどうかも知らないし。美味しいお酒と言っても、僕は基本ビールがあれば良いので、美味しいハイボールとなると調査が必要です。

 本当に物理的世界で見るであれば、かなり忙しそうだから僕と会うくらいなら休息に使って下されとしてしまう。勝手理論で言えば、勝手に飲んでも良いよって言われることは僕には関係ないけど、そこがバグるのが想いの効用。

 

 最後。僕が現実感を見失っているのは、最初の現実が割と地獄だった逃避にあるのかもしれない。現実を再構成しているところ。というのが1つの読み方。

 読み書き話、だと話すのが一番簡単だと言ったのは僕じゃないけど、僕は話すことにはほとんど重きを置いてない。自分のことを話したいから会いたい訳でもなし。話すことが必要とされるのは三次元的な場の確保のため。

 

 想い人のこと書いていたら悲しい気持ちが単なるドキドキになったので、好きな人が居るだけで効用である。これが勝手理論。

 

 では、皆さん現実と非現実を見失いませんように。

 

 

無根拠

 何事もなかったようでなかなか貴重な連休だった。誰にも会わないで思考できる連日はそんなにない。誰にも接したくないというのは臨床心理学とか精神病理学的には明らかに社会的不適合だけど、たぶん明後日には何事もなかったように仕事に行っているし、母親とか麻雀の誘いにもてきとーにフォローを入れるのだろう。人は他人をそこまで気にしていない理論。〇にたいと定期的に呟いているけど、これは退場願望というより社会で場所をとっているのが面倒だというところ。空間と場は微妙に違うかも。こういう細かいことって生活しているとあんまり考えられないし。別に考える必要はない物事だけど、必要があることしか考えるべきではないという考えもの。

 場と言えば、今日憲法職業選択の自由のところを読んでいたのだけど、なんで居住・移転の自由とセットで規定されているのかが知識としてじゃなくて実感として分かった。職業も住所も歴史上、個人が生きる固定化された場だった。士農工商は分業社会として良かったのだろうけど、その分業で割を食っている人が居たから、場を移転することが自由だとした。憲法は哲学的なところがあってとても良き。ただ、この場の自由すら持て余している感。不安定な自由より安定している不自由の方が生きやすいという観念。この観念の中だと、他人も場として規定される。とすれば、こういう場の自由は欲しかったのではなくて、単にないものねだりだったのかも。

 記憶には習慣的記憶と想起的記憶があるといったのはベルグソンさんらしい。記憶が場であるっていうのはともかくとして、「想起的記憶とは、過去の言語化。言葉による過去の意識化。」という考え方はとても良いと思う。つまり過去を想起することは1つの物語くらいな意味しかない。そこで何か客観的なものを読み取れると思えるなら、それは一種の宗教になる。

 僕がここの所やっている過去語りは、僕が過去に執着している訳でもないし、誰かに過去の自分を提示したい訳でもなく、単なる言語化の試み。読んでいる人は王様の耳はロバの耳の穴の中を観測しているだけ。この穴の中は、僕とってぎりぎりの純粋な言語化だけど、これが僕のぎりぎりの精神性という訳でもない。のか?

 僕が恐れているのは既知でまどろむこと。客観的世界の極致の物理学者さえも世界は分からないと言っている。知らないことに対する興味が世界が形作る。

 なんだっけ。例えば、感情に場があるとして、その感情に優劣をつけるのは何か。そりゃあ三次元的に何を優先するかだと思われる。確かに人は三次元の中でしか物理的に生きられないけど、そもそも次元とはなんぞやからか。

 次元っていうのは、変数のこと。空間は2直線と高さで構成されている立体だとしない人はいない。これが最小限の現実感覚。もう少し細かく言うと変数はいっぱいある。その人が習得した非言語の感覚とか。

 でも、精神の次元は限定されていない。そこが心身の統合ができない原因。精神は時空をやすやすと越えることができるけど、基本的には肉体の三次元に従属されている。肉体が精神に直結されるっていうより、精神が肉体を調整しているように観測されるけど。

 この文脈で言うと、精神的自己像的な肉体と三次元的な肉体がずれるのってあんまり現実を生きていないように思う訳で。食べるという行為は、意味的に色んなところに拡がるけど、我慢できなかったことが三次元的に形になる。すぐ三次元に還元される肉体を持っているってことなのだろうけど、僕の肉体は全然変化しない。この先は知らんけど、別に経口摂取に特に重きも置いていない。味は現実感を主張してくるけど、僕の現実感は三次元でもないし。

 三次元でない現実感とはなんぞやというと、自分の感覚を一次元とすること。僕が想い人のことを好きだと思うのは、僕のことをどうでも良いって思っているところ。とても心地良いなんてことはないけど、これが好きなんだろうなぁって。

 完全にとばっちりだろうけど、僕は自分の欲望が満たされることを幸せだとしていない。この流れでいうと、好きの定義で言えば想い人は僕のこと好いているのだろう。という風評被害

 返ってくることを求めるのは需要と供給があるのが当たり前の世界の中だけのこと。

 

僕は、返って来ないのに想うことが証明だと思う訳で。

ここで返って来られても困るけど。

 

対価を求めないない想いが胸を重くさせる。

 

では、皆さん体重くらいはコントロールできていますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知ったかぶり

 近所のスーパーが営業しだしたから海鮮系を食べようと思って眺めたのだけど、刺身ではなくて手巻き寿司の具だったから断念した。代わりに鯖缶とチーズを買って玉ねぎとトマトときのことグラタン風。トマトは熱を通すと味が変わって良き。味噌汁も好き。

 昨日の日記は読み返す気もしないけど、偏差値62は言い過ぎ。せいぜい55くらい。あの話の結論は、人は人が他人に接している人格は観測できないというというものなのだけど、そこまで書けたのかな。恋人が友人と接している人格も分からないし、要は人の全方面的人格は把握できるものではない。まぁこの発想は僕のオリジナルではないけど。本からの受け売りでもない。直に言われたことがある。少し意訳しているけど。

 精神と肝臓の状態はまぁまぁ異常だけど、本を読んだり資料をまとめたりしていると落ち着く。本を読めとも勉強しろとも言われなかったことからすると、自発的選択と思わせて消極的選択でしかないのかもしれないけど、本当とはなんぞや。

 ほぼ人でなしみたいなところで年始を過ごしているけど、なんだかもう少しで掴めそうな感じがする。この連休で物理学の本も読み終わるし、数学の本も3年前くらいに買った虚数の情緒っていう辞書くらいの分厚さの本を読み返している。客観的な世界観はここから創られているのだろうなと。あと、共通感覚論と、人はなぜ腰痛を選ぶのかと、歴史とか。

 元禄文化が憂世っていう厭世観から浮世に変わったとかとても良いなと思う。世界史は割と合理的に発展しているけど、日本史はもう少し遅々としているというか、おちゃらけているような。合理的なことが良いとか論理的なことが良いというのも輸入で、合理的って理性的に考えられているように思うけど、結局は欲望の最短化でしかない。いや、欲望の最短化は別に悪いことではない。けど、なんだか人間の無駄遣いなような気はする。欲望を最適化するって人間の固有性でもないし。最適化をコントロールできるようになれば固有だろうけど。

 そんで、新たな認識。情報とはなんぞや。広辞苑的な定義を知っている人はいっぱいいるだろうけど(僕は知らない)、科学的に定義した人がいるらしい。曰く。現実に起こり得る選択肢の総数らしい。とても面白いと思った。つまりあるかないかであれば情報は22の情報を大事にしているのが日常生活なのだろうな。関係ないようで繋がったのが憲法表現の自由を何故大事にしているのかというところで、ある学者さんが、人間は情報の動物だから、情報の確保のために表現の自由があるのだというところ。これを組み合わせると、現実に起こり得る思想の数を増やすために表現はなるべくあるべきという観念。拒絶する表現があるということ自体がその人の頭の中を拡げるということ。観念が狭まった世界ってある意味普通の社会だけど。気持ち悪いものがあるって感じることができること自体が表現の自分の恩恵としての拡がり。

 自分が経験したものしか現実でしかないというのは、自分が得た情報、起こった現実を前提にしているのだろうけど、これは1つの閉じた世界だと思う。僕は自分が無関係な情報がとても好き。新幹線とか高速バスの車窓から眺める街並みとか干してある洗濯物とか畑とか、誰かの欲望が現実化して組み合わせたものが世界を創っているのだなぁというところが。客観と主観の逆転の話は書いたと思うけど、この客観的世界があることが気になるのではなくて、僕が何故そこに向くのか。世界は自分が向ける範囲にしかないから。母親も四国をドライブしていて、なんでそこに家を建てたんだみたいなことは言っていたけど、これはあくまで自分を基準とした世界の見方。似ているようで違う。これでは世界はいつまでも拡がらない。まぁ別にそれでも勝手にしてくれるかぎりには問題ない。

 他人の人格を勝手に決める現象のことも物理学がある程度解明してくれた。世界は量子の動きの平均値だということ。厳密にはどの本も同じようなこと言っているからどれがそれか分からないのだけど、それも含め。主観的世界の最小値は自分でしかない。この極小スケールがとても良き。一番は、現象として把握できるのは相関しかないというというところ。

 他人をどう把握するかって当たり前過ぎて、言葉で定義することはできない。というか伝達する必要がないから言語化されない。ある人にとって他人は相関としてしか知覚できないっていうのはとても素朴な感覚として分かるから良いな。いや、確かに存在していると思うなら、それは、貴方が固定した他人をその人としているから。時間と重力の関係で言えば近くに居る人の方が時間の流れが遅いし、というか、遅いも早いも概念としては同じようなもの。

 僕から見た人は、ある意味異星人。だから、関係とは運と縁だと言っている。運は、異星の公転周期がたまたま瞬間的に一致することで、縁は、その一致を継続させたいと思う意志。

だから人と接することができることは貴重なの。これってきっと家族でも一緒かと思う。どうでも良いけど。ほんと書ききれないなぁ。

 とすれば、まず相手に発信できる場が貴重、じゃないな、想い人に寄りすぎた。他人を自分の欲望の一部とすることに違和感が出てくる。僕の欲望は、情報としては価値がないもの。本当に生生しく欲していても、それが現実化して満たされるみたいなことはない。たぶんそうなったときその僕はそう言うだろうけど。本当に満たされたら人は終わる。

 すべては相関だっていう物理学の最新知見は圧倒的な力がある。相関した自分と他人が生活を形作るし。でも、僕はその先を勝手に想っている。勝手に好きという観念とか祈りは相関を越えているような。

 受動的なようにみえるけど、自分が主体的にできることは去年分かったので。自分が主体的に動くことは誰かの世界を壊し得るみたいな。なんせ月の人なので。引きこもった方が鮮明なるとも言わない。ここはあくまで今の観測値。

 相関と関係の違いは、前者は自分も変数だけど、後者だと定数なのところかな。世界に対して、自分が変数か定数か。変数だとすれば相手も変数だとしないといけないし、定数だとすれば自分の変化を自分で殺さないといけない。こういう精神性から婚姻が生まれたとすると分かる。

 不都合がない人はこんなに考える必要もないし、考えている人を好ましいと思うかも分からない。なんにも分かっていない。

 

 では、皆さん正月太りしていませんように。

 

おやすみなさい。