それでも足りない
食材は変わるけど、メイン、サラダ、箸休めは欠かさない。どれだけ消化できているかは分からないけど。今日の箸休めはスナップエンドウの胡麻和え。うまい。毎日30品目は過多だと思われる。多分15くらいでローテーションした方が良い。毎日食べても良い物ってあんまりないような。もやしの性能の高さは安さでも栄養価でもなくて、調理に手間がかからないこと。熱を通す時間も少ないし、レンジで硬度の調整も簡単だし。
今日の夢はなんだっけ。
忘れたけど、割と安らかだったような。
帰ってきた時間も早かった。
ともあれ。
先に書くか。というより、なかなかの僕の根本ではある。
それを言われて嫌だという訳ではないけど、僕が致命的に欠けているなと思うところ。
声色に抑揚がないとか、言動に感情が見えないとか折りにふれて言われてきた。なかなか致命的なところで。他方、分かり易いとも言われる。これだけ分かり易い人もいない、と。その癖結局分からないとなる。これはなんなのか。
恐らく何かがズレていて、そのズレがなんとなく最近観測できるようになってきた。これはきっと言動に対する期待値の設定が狂っている。
抽象的なだけだと分かりづらいから、具体例で。
人と会う予定が流れてしまったのだけど、残念そうに見えないねと言われた。
人間関係は運と意思じゃないけど、僕はこれをたまたま縁が合わなかったとみなす。そうして、残念かどうかと言えば残念だけど、残念だと評すことに価値を置いていない。会えないことには変わりないし、残念だと示す、例えば何も手につかなくなったことを欲するのであれば、それは関係ではないし。これは極論過ぎた。
でも、評し始めたら、きりがない。例えば、評しすぎたら相手の枷になる可能性もあるし、そうやって枷を設置し合う関係が良いとも思えないし。同情が欲しいっていうのも分からんでもないけど、僕の残念さには同情して欲しくないと思う質。僕の残念と貴方の残念は残念という言葉で括れるものだけど、中身は全然違う。
現実化しないと読み取らないっていう観念は凄く理に適っているとは思うのだけどこれってどうなのだろうとも思う訳。察しなさいだけでも良くないし、察することができるくらいに現実化しないと分からないも良くない。
だから、僕は社会通念みたいな観念がどうもよろしくない。裁判所の判決でも良く出てくるのだけど、これって普通の感覚っていう不文律。つまり、こういう現実化があればこういう感情を持っているのだってショートカットできることに等しい。もちろんそういう一般感覚に胡坐をかいているところもある。それが嫌だからどんどん分解しているけど。
そうして、戻ってきて。
僕が分かり易いというのも分からないというのも、僕を観測している当人の観念の範疇の話なのではという結論。自分がするようにしないと分からないならまだマシだけど、自分はできてないのに理想像としての道徳で観測しだすと途方もない。
僕は、自分の範疇がズレているし、自分が好む目線もおかしいと自覚している。ただ、僕が相手に対して分かり易い分かりにくいを言うのは、ただ暫定的にそう見えるというだけで、当人がどうとかいう人格には及ばない。だから、何か新しいことあれば、おーって発見になるだけで、自分が思っていたのと違ったとかにはならない。むしろ違いがあるのが当たり前なのが人間では。
そうして、僕の自己観測もおかしい。割と思い付きの現実化しかないから、これがどういう意味を持つのかを考慮しないことが多い。で、人間関係の判定をするのは、イベント(刹那的な対話も含め)がある最中ではなくて、終わった後。最中は相手とか空気に流されていてもその枠内で愉しむ奴だから、本当に楽しんでいるかは分からない。
事後に記憶を掘り返してみて、君本当に楽しそうやな、って再現できる関係が良い。
楽しいは都合が良いじゃなくて、痛くても良い。
この文脈では僕はすこぶる分かり易いと思われる。
精神分析で言うと、子供が優位なのだろうな。子供はいつも怒っていて子供だからしょうがないでしょうとなるみたいだけど、それとも違うな。子供自体の楽しみだけを抽出した感情脳。
まぁ、どうあっても変態でしかないのはしょうがない。
むっつり脳も否めないし。
では、皆さん良い夢を。